2002年度寄付講座
環境と経済の新世紀

第22回: 藤井絢子氏(2002.11.20)
(滋賀県環境生協 理事長)

「菜の花プロジェクトが開く循環型社会経済地域モデル」

3page


琵琶湖赤潮の原因は家庭排水

 そこで、私たちは何ができるかということをずいぶん考えました。かつて大蔵大臣をされていた武村正義さんという方が滋賀県知事を長らく務められていました。その武村知事の時代に赤潮が起きたのですが、この状況で私たち県民に何ができるかということで、農業の現場、産業の現場、生活の場面も実践することを宿題で投げかけられます。それでいろいろな場面を調べていきます。毎日少しずつ負荷をかけていることで、琵琶湖を汚している原因になっているものがリンの含まれた合成洗剤でした。ならばリンの入った洗剤の代わりに私たちはせっけんで暮らしましょうということで、せっけん運動を展開しました。「こんなことできないわ」と言うかもしれませんが、早稲田商店街は非常におもしろいかたちでやっているので、これもできるかもしれません。行政は全くこのようなときには動きませんので、まず地域住民がてんぷら油の回収にかかります。水を汚している中で最も水に対する負荷が多いのが油でした。今から25年前というと川に撒いてしまうとか、家庭の流しから「少しくらいなら」と流してしまうということがあった。そのようなものが水を非常に汚しているということに気づいて、しかも、とてもうれしいことにこのてんぷら油で上等な粉せっけんができるという情報を持ち込んでくれた方たちがいました。ならば、私たちは琵琶湖の周辺から廃食油を集めて、これをせっけん工場に持っていって、せっけんを作ってもらって使うというリサイクルの運動をしようということで動き始めました。

 動き始める中で、初めはどんな運動でもみんながんばります。原料のてんぷら油が足りないほどせっけんを使いました。たぶん東京のこの地域で言えば、せっけんはスーパーマーケットの売上高で5%も売れていないのではないでしょうか。ほとんどが合成洗剤だと思います。そのような中で、私たちは個々の家庭の油を回収してせっけんを作るという活動を地道に続けていきました。滋賀県では、50%以上の家庭でせっけんを使うようになったらせっけん条例を作ろうと武村知事が言っていました。そして、合成洗剤を買わない、使わない、贈らないという条例をつくるというので、私たちは琵琶湖で辻説法して回りました。条例をつくったときにはせっけん利用率は70.6%までいきました。ところが、条例ができたとき1980年に花王とライオンは無リンの合成洗剤を発売しました。テレビコマーシャルの「白さと香りのニュービーズ」が茶の間に飛び込んできました。1980年に茶の間にどんどん入っていって、今も盛んにコマーシャルをされていますが、その合成洗剤の大きなうねりの中で、さすがの琵琶湖を守る運動の中にも合成洗剤派が増えてしまいました。私たちにとってみれば琵琶湖の問題は赤潮も出る、アオコも出る、先ほど申し上げたような化学物質の問題がさまざま出てきて全く琵琶湖は良くなっていないのに、琵琶湖の人たちはどうも琵琶湖に関心を向けずにそっぽを向いてしまった。「水を汚してはいけない」という意識は残りました。ですから、廃食油は実に丹念に回収されて私たちの環境の専門生協のところに集まってくるという仕掛けになっています。倉庫前には廃食油だけが貯まってしまいました。せっけんを使えばグルッと回るのですが、使わないので原料の廃食油がどんどん貯まっていく。

菜種の廃食油をバイオディーゼルに

 当時は、本当に運動を止めてしまおうと仲間と議論しましたが、今考えてみると次なる時代に向けてきちんとシフトせよといういい勉強の機会だったと考えます。私は代表をしていますので、これがだめになったとき、そしてこの廃食油の山が毎日毎日高くなっていく中で、日夜寝ずに情報を集めたり、どのような方法があるかといろいろな方たちに訪ねましたが、日本国内では全く回答がありませんでした。その時に旧環境庁の大気保全局に非常におもしろい情報がありました。どのような情報かというと、第一次石油危機が1973年に(琵琶湖の赤潮よりも前に)起きるのですが、1973年にドイツの指導者たちは何を考えたかというと、石油危機はいずれ石油が枯渇し、なくなる時代が来る。ならばそれに備えて化石燃料に替わるものを準備しなければいけないということで、農地に菜種を植えて、その油を絞って、その油をそのまま精製して車や船、トラクターを走らせているという実験のレポートが環境庁にありました。農地で菜種を植えて、食べるのではなく化石燃料に替わって菜種油で走らせるという発想は、私にとって目からうろこでした。それと同時に、そこで止まらなくてよかったと思いました。きれいな菜種油はないけれども、わが社には廃食油がたくさんある。汚れているとはいえ植物油なのです。てんぷらに使うごま油であったり大豆、菜種油などさまざま入っていますが植物油ですので、菜種からこのようなラインで化石燃料ディーゼルに替わって使っているドイツの例を、私たちは廃食油でやってみようと決心して実験にかかったのが今から10年前です

 10年前にてんぷら油を滋賀県の工業技術センターに持ち込んで、実験室を借りました。私どもの職員を半年通わせて試行錯誤をしながら、日本の軽油のJIS規格に合わせてどこまで性状が追いついているか。「よし、ここまで追いついた」と思ったときに、その燃料でまず私たちの配送トラックを走らせてみました。そして、琵琶湖に立地している環境の専門生協ですので、漁師もいますので船で使ってみては、ということでやってもらいました。滋賀県の人たちは二種兼業を含めて農家の方はたくさんいます。農家の人たちはトラクターを持っているので、「ドイツでは菜種油でやっている。てんぷら油で燃料を作ったからやってみて下さい」ということ走行実験しました。程なく環境庁に掛け合って、「てんぷら油で燃料を作るテストプラントを作りたいので環境生協に助成してほしい。テストプラントは約500万円でできます」と言ったのですが、環境生協には助成してもらえませんでした。

 環境生協にはしてもらえませんでしたが、滋賀県内のどこかの市町村が設置するのであれば国が応援しようと言ってくれました。「よし」ということで滋賀県の小さな町、人口約5,600人の愛東町という町に飛び込んで、ドイツの情報、てんぷら油の燃料で動かすことで3,300の自治体のトップになれるということで、若い町長を説得しました。「おもしろい、やってみましょう」と言ってくれたので、すぐにテストプラントをつくって持ち込みました。町から出る油はゴミではなく地域の油田だと言って、地域の油田であるてんぷら油は徹底して町で使おう。そして地域で集まる油田でせっけんや燃料にして、地域のこの循環系に乗せようということで伝えました。あっという間に愛東町は回収システムをつくって、油はゴミにしないという町に変わっていきました。

 そのときから、てんぷら油で作ったディーゼルは植物のディーゼルですのでバイオディ−ゼルと言いますが、私は環境庁の審議会で「バイオディーゼルは地球環境の問題に対しても負荷が少ないので評価してもらいたい」と話をしましたが、どの会議で話しても「あほな話をしている」と全く振り向かれませんでした。しかし、私たちは着実にこれをやっていこう、さらにこの先を行かなければだめだと決心しました。ドイツのプロジェクトがありましたので、いずれ菜種を植えたいと思っていたのですが、1997年京都会議が転機になりました。地球が温暖化しているという状況の中でともかく世界でCO2の削減をしていかなければいけない。その京都会議に私もNGOとして参加していましたが、京都会議の宿題を日本政府、私たち国民はもらったにもかかわらず、審議会の中では相変わらずCO2を削減するのは原子力発電所が一番だということで、京都会議の前も後も原子力発電所をあと20基造るという話なのです。どう見ても原子力発電所を建設して下さいという地域がないことは見て取れる。

「菜の花プロジェクト」の始動

 私は琵琶湖に住んでいますので、琵琶湖のすぐ北側の原発銀座が非常に気になっています。15基ありますが、もし一つでもチェルノブイリのようなことになれば飲み水はパーになってしまいます。そうすると、1,400万人の水源がなくなってしまうので、絶対に起きてはいけない。ところが、国では相変わらず原発と言っている。私たちNGOは電力会社や、それをバックアップする省庁、研究者とずいぶん戦いましたが、再生可能エネルギーなどという幻想に乗ってもエネルギーは確保できないということで、全く目もくれてもらえませんでした。逆に「こんなに安心、安全から遠いもので日本の国民の安心、安全は図れますか」ということには、応えが出ませんでした。

 1997年の京都会議、そして1998年にいよいよ基本方針をつくるという議論に参加していて、国の中で議論してもだめだと考え、地域できちんとモデルをつくる。地域で私たちは「このような循環型のモデルがこれからの社会の一つのかたちです。エネルギーはこのようなかたちにつくっていきます」ということを見せようということで、てんぷら油を回している愛東町で1998年の秋、ちょうど基本方針を議論しているときに種を撒きました。ここで「菜の花プロジェクト」という名前を付けて、いよいよ種を撒こうということになりました。

 ドイツでもどんどん菜種の作付面積を増やして、ここで絞ったものを精製して車、漁船、トラクターなどいろいろなものを動かしています。私たちはまず食用にすることを経て、今まではせっけんで循環系をつくってきました。燃料を使うことで少し循環系が広がってきた。そこで、農地に種を撒けばこのような地域のシステムができるのでみんなでやろうと頼みました。そうすると、1年目で4町歩貸してあげますという人がいたのですが、失敗するといけないので小さい面積で、しかし志は大きくということで「菜の花プロジェクト」は地域の資源循環サイクル、新しい時代を提案するシステムということでやろうと言いました。

 この時に、もう一つ意識したことがあります。ちょうど1998年というのは海外から遺伝子組み替えの食料がどんどん入ってきていました。農林水産省は食用油については表示のところに「これは遺伝子組み替えの菜種で作った油です」と書かなくてもいいということになっているので、全くわからずに売られています。私はこの地域の中で作る人たちは、自分の子供たちや孫たちに安心、安全なものを食べさせたいと思うであろうから絶対にここには遺伝子組み替えの種は撒かない。そして、ここでできた油は、まず未来世代である子供たちに安心、安全な学校給食で使おうということをモットーに、植えて、絞って、学校給食で使う。そして食べたあと、油を回収して回す。このようなことをしようということを伝えて動き始めました。

 そのような中で、ドイツが上手くいっていないと困ると思いながらたびたび通っている中で、ぐんぐんと進んでいきました。ドイツは1998年10月にシュレイダー政権が誕生します。現在2期目ですが、シュレイダー政権が誕生したときに二つの大きな方針を出します。「脱化石を目指します」、「脱原発を目指します」ということです。指導者がこのように明確なメッセージを発すると、国の方向が決まっていいなと思いました。ちょうどドイツの友達の家にいたのですが、その友達が「ずいぶん明確なメッセージね」と言っていました。そのような中で何が起きたのかというと、バイオディーゼル、菜種油のプロジェクトがどんどん進んでいることに出会っていきました。タンクローリーにはバイオディーゼルと書いてありました。このようなタンクローリーが日本の中でいつ走るのか。

 私が生きている間には無理かもしれませんが、このタンクローリーがどこに給油に行くかというと、もちろんガソリンスタンドに行きます。1998年に初めて憧れのガソリンスタンドを探しました。ドイツの友達に、全国のガソリンスタンドの中で菜種油の燃料を売っているガソリンスタンドを調べられるか尋ねたところ、きちんとガイドブックになっていました。では、私が行くところをチェックすればいいということで、何日か滞在できるミュンヘンにどのくらいあるか調べると4軒ありました。行ってみると二番目のところに本当にあり非常にうれしかったです(写真)。このガソリンスタンドですが、こちらには化石燃料が入っています。こちらにバイオディーゼル(菜種油)が入っているのです。これはタクシーでベンツです。ほとんどディーゼル車です。日本は「ディーゼルNo!」という石原知事の話を含めてディーゼルからどんどん離れていっていますが、EUはどんどんディーゼルに変えている。それはなぜかと言うと、CO2の負荷が非常にガソリン車に比べて少ないということと、私たちで言えばてんぷら油でも走らせることができる。






Copyright (C) 2002 B-LIFE21 All rights reserved.
Feedback to postmaster@zeroemission.co.jp