
如水会館一階フロアーにある渋沢栄一の胸像
石橋投資術表紙案渋沢栄一と一橋大学
士農工商の身分制度が定着していた江戸時代、商人の地位は低かった。明治維新で時代は大きく変わったが、渋沢は「官尊民卑の弊がいまだに残っている」と強い不満を持っていた。ビジネス(経済)の発展が近代日本を支えると確信していた渋沢は、官に引けを取らないビジネス人の教育向上が急務だと考えていた。そんな折、明治8年(1875年)8月、駐米日本代理公使を終えて帰国した森有礼(後の文部大臣)は、渋沢、福沢諭吉の協力を得て、銀座尾張町(銀座6丁目)に商法講習所を設立した。森は諸外国と対抗していくには商業が欠かせないと感じ、商業を専門に教える学校の設立を計画していた。当時東京会議所頭取だった渋沢は自分の考え方とも一致していたので、資金援助を引き受け、東京会議所から東京府知事へ開業届が出された。森の私塾としてスタートした商法講習所は、東京商業学校(1884年)、東京高等商業学校(1902年)、東京商科大学(1920年)、東京産業大学(1944年)と改称、改編を繰り返し、1949年に現在の一橋大学が発足した。
如水会館と神田一ツ橋
1885年9月、東京商業学校は東京外国語学校と合併。東京外国語学校の校地だった神田一ツ橋に移転した。大学本科が1930年(昭和5年)に国立市に移転するまで、大学の所在地は一ツ橋だった。移転後の跡地は小学館(株)や共立女子学園(学校法人)が取得した。その一角に一橋大学の同窓会組織である、如水会の拠点、如水会館が設立された。如水会館は1919年(大正8年)6月に開館した。ちなみに名付け親は渋沢だ。中国の古典、礼記の「君子の交わりは淡きこと水の如し」から命名した。現在の建物は1982年(昭和57年)に建て替えられたものだ。1階はレストランフロアーで渋沢とゆかりのある東京会館に運営を委託している。ロビー正面には高齢期を迎えた渋沢栄一の胸像が置かれている。人生をかけてビジネス人の教育向上に取り組んだ渋沢の執念が感じられる胸像だ。
2026年5月10日記