
(江東区塩見2丁目、清水建設敷地内)
145年ぶりの里帰り
渋沢は自らが頭取を務める第一国立銀行の建設を請け負った清水建設二代目の喜助の心意気と技量を高く評価した。喜助は日本にまだ西洋建築がほとんどない時代に、外国人技師の指導を受けず、独力で研究を重ね、堂々とした洋館を完成させた。その技量に惚れ込み、渋沢は自宅の建設を喜助に任せた。1878年(明治11年)、深川区福住町(現在の江東区永代)に完成。1908年に港区三田に移築した。戦後の1947年に国有化され、三田共用会議所と命名され、約40年間、中央省庁の会議所として使われた。
数奇な運命の渋沢邸
その後、老朽化と道路拡張のため取り壊しの危機が迫ったが、1991年、渋沢家の元秘書に払い下げられ、青森県六戸町に移築された。それから30年後、清水建設が購入、現在地に移築した。栄一からひ孫の代まで4代にわたって渋沢家が暮らした。和風の表座敷、洋館の客間、延べ床面積、1204平方メートル。
関東大震災、太平洋戦争を乗り越え、解体リスクも免れ、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を生き抜いて、令和に引き継がれた「旧渋沢邸」の数奇な運命に日本資本主義の将来を見守りたい渋沢の執念を感じた。
2025年8月17日記