院長に就任したものの養育院の運営は困難を極めました。保護者の増加、分院や専門施設の拡大などに伴い、本院の移転を繰り返しました。当初、本郷加賀藩邸跡(現在の東京大学)の空長屋に設置されました。その後、上野(現在の東京芸術大学)、さらに神田、本所、大塚と移転を繰り返し、関東大震災の後に、板橋区にようやく終の棲家を見つけました。この間、東京府の財政難から府議会が資金供給を拒否し、養育院は廃止される運命に追い込まれました。渋沢は存続を求めて、ビジネス界など各方面に義援金を求め奔走、何とか危機を乗り切ったこともあります。
渋沢の養育院に対する貢献に対し、1925年(大正14年)、東京市民のカンパ(寄付金)で、板橋区(現東京都健康長寿医療センター敷地内)に渋沢の銅像が建立されました。渋沢86歳。銅像は5.4メートルの花こう岩の台座にフロックコートまとい、ソファーに座る晩年の渋沢像です。高さ3.75メートル、重さ1.8トンの堂々とした銅像です。
ところが、日中戦争から太平洋戦争にかけての戦時体制の中で、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、官民所有の金属類回収が決まり、渋沢銅像もその対象にされました。渋沢像は撤去され、その代わりに、コンクリート製の渋沢像が建立されました。撤去された渋沢銅像は、養育院の片隅に放置され、供給される日を待っていました。ところが板橋区周辺の交通事情の悪化や板橋区が空襲されるなどが重なり、運送不可能な状態が続き、終戦を迎えました。渋沢銅像は傷つかずで生き延びました。
今、渋沢像は東京都健康長寿医療センター敷地の一角に端座しています。強運の渋沢像にあやかりたいと、若者の訪問が増えているそうです。〈2025年6月22日記)