新1万円札の顔、渋沢栄一、2024年7月登場
渋沢栄一といえば21年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」をご覧になった方も多いと思う。農民出身でありながら徳川最後の将軍、慶喜の重臣となり、実弟昭武に同行してパリで開かれた万国博覧会を見聞した。欧州滞在中の約2年間、フランスを中心にスイス、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリスなどヨーロッパ各地を訪問した。この時の経験がその後の渋沢の人生観、社会観、経済観、国家観などに大きな影響を与えた。
渋沢は500を超える企業の創設に携わっただけではなく、養育院や病院、学校など600を超える社会事業に連なる団体の設立にもかかわっている。
渋沢が後年、「日本資本主義の父」と呼ばれることになったのは、パリ留学で得た合本組織(今日の株式会社)を日本に初めて持ち込み、市場経済を支える多くの株式会社を創設、日本資本主義の土台を築いたことだ。
道徳と経済の両立を主張
渋沢の考える株式会社とは、日本の各地に点在する優秀な人材、小資本を一堂に集め、株式会社を設立し、世のためになる仕事をする事業体のことである。渋沢の企業性善説は、株式会社は世のためになる仕事をするのだから、悪いことをするはずがないとの信念に基づいている。渋沢にとって、株式会社とは今流の言い方でいえば、公共財的性格の強い事業体という事になる。
会社の経営に当たっては、道徳と経済の両立、利他主義、労使協調、適正利益の確保、企業の永続性などが強調される。本書ではこのような渋沢流というか、渋沢型経営のことを渋沢イズムと名付けている。
日本の黄金期支えた渋沢イズム
渋沢イズムは戦前日本の経済活動のルール、基礎を創っただけではなく、戦後日本の経済発展にも大きな貢献をする。戦後日本の「世界の奇跡」といわれた急速な経済発展、特に10%成長を10年以上続けた60年代からバブルが弾ける80年末までの約30年間は、日本の黄金時代だった。この黄金時代を支えたのが、渋沢イズムを体現した大小様々な日本企業の活躍だった。筆者はこの黄金時代を渋沢資本主義の時代と呼んでいる。
日本は80年代後半にバブルの時代に入り、90年代初めにバブルは崩壊する。日本は長期かつ深刻なデフレ不況に陥る。多くの日本企業は大量の過剰労働を抱え経営不振に陥る。この過程で渋沢イズムに支えられた日本型経営は時代の変化に対応できない古い経営として見捨てられ、日本企業は雪崩を打ってアメリカ型経営に乗り換えた。渋沢資本主義も幕を閉じる。
「失われた30年」の原因は?
その結果はどうなったか。残念だが、「失われた30年」といわれる戦後最大の停滞の時代を招いてしまった。企業は株主のもの、経営者は株主に最大利益をもたらす行動をする、従業員は生産財の一つに過ぎず、不況になれば解雇できる、さらに経営トップ主導で短期の利益追求を目指す、などがアメリカ型経営の核心だ。だがアメリカ型経営が行き過ぎると、強欲資本主義、強欲経営を生み出し、貧富の格差拡大、中産階級の没落、地球環境の破壊など深刻な社会不安を生み出し、将来世代が解決困難な負の遺産を蓄積し続けることになる。
あらためて、30年を振り返ると、アメリカ型経営、特に剥き出しの利益追求姿勢は、日本人のメンタリティ(気質、ものの考え方)に合わなかったのではないか。
明治維新で近代化に舵を切った日本人には政治も行政も企業もそこで働く者は、天下国家のために一身を投げ打って努力しなければならないという大義名分を背負ってきた。
「経営者は株主利益の最大化を目指す」といったアメリカ型経営思想には公共性の視点が全く欠けている。自分さえよければ他人がどうなっても構わない利己主義そのものだ。そのような目的で会社を経営したくない、そんな会社で働きたくない、というのが日本の労使の共通した気持ちだろう。国家、国民に役立つ事業を展開するという共通の目標があれば、労使とも意気に感じて燃える。アメリカ型経営に移行したものの強欲資本主義に多くの日本企業はなじめなかったのである。利益をあげてもリスク覚悟で新規事業や研究開発に積極的に投資する意欲は乏しく、儲けたお金は社内留保に回すなど消極的な姿勢を貫いてきた。このため、日本経済復活の先兵役を果たせず、30年間を空費してしまった。
日本企業の奮起に期待
新1万円札の顔として渋沢が登場する機会に、公益重視、道徳と経済の両立、適正利潤の確保を経営の柱とする渋沢イズムを復活させ、さらに渋沢の経営哲学、思想に当たな時代の光と風を当て、磨き上げることで地球の限界と折り合える持続可能な新しい経営システムの構築が急がれる。それができるのは渋沢資本主義を支えた経験を持つ日本企業しかないのではないか。日本企業の奮起に期待したい。
2023年12月22日記