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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

最終回(27回) バブルで絶頂期、突然の崩壊、そして復活へ

△絶頂期の渋沢資本主義

バブルが始まった80年代後半の日本は今からから振り返ると、渋沢資本主義の絶頂期にあたる。明治以来の国家目標だった「欧米に追いつけ、追い越せ」はこの時代にほぼ達成した。経済成長率は85年からの5年間、年率平均5%の高い成長を遂げた。90年には日本のGDP(国内総生産)は世界GDPの約15%を占め、アメリカの26%に迫り3位ドイツの7%台を大きく引き離した。生活の豊かさを示す一人当たりGDPはイギリス、ドイツ、フランスを大きく引き離し、93年には悲願だったアメリカを抜いてOECD(経済開発協力機構)加盟国1位(3万4906ドル)に躍り出た。60年代の高度成長期に「GNP(国民総生産)は大きくても生活水準の指標とされる一人当たりGNPが低く過ぎる」と批判されたが、両者の「格差」も解消した。

(注)GDPとGNPの違い

GDPは国内総生産なので、日本企業が海外支店で生産したモノやサービスの付加価値は含まれない。これに対しGNPには含まれる。国連統計委員会の1993年SNA(国民経済計算)改定以降、GDP表示が使われるようになった。

 

企業の海外進出も強くなった円を背景に積極的に展開された。世界のビジネスセンターであるニューヨークやロンドンにある著名な高層ビル、ホテル、さらにカリフォルニア州の名門ゴルフ場など世界各地の不動産や名画、株式などを買いまくり、「ジャパンマネー」は世界を席巻した。

日本の繁栄を支えてきた欧米からの先端的な技術導入も細り、企業経営者の間からは「もはや欧米から学ぶものはなくなった」といった強気とも驕りいといえる発言が飛び出した。

この時期、日本型経営に支えられた渋沢資本主義は繁栄の頂点に達したといえるだろう。

△日本型経営 崩壊

だが、「いいことずくめ」は長くは続かなかった。

政府、日銀はバブルによる景気過熱の抑制に乗り出した。日銀は89年5月に公定歩合を0.75%引き上げ3.25%にしたのを皮切りに90年8月までに合計5回矢継ぎ早に引き上げ、公定歩合は6%まで上昇した。90年入り後もバブル景気は拡大し、90年度の経済成長率は6.2%だった。しかし年度前半と比べ後半は大幅に低下した。91年度の成長率は2.3%、92年度は0.7%、そして93年度はマイナス0.5%まで落ち込み、バブル景気は収束した。

バブル景気の収束を確認した日銀は91年7月に公定歩合をそれまでの6%から5.5%へ引き下げた。それに続き、93年9月までに合計6回引き下げ、公定歩合は1.75%と過去最低水準になった。政府も92年8月に事業規模10兆7000億円の景気対策を打ち出したのを皮切りに99年までに合計7回、事業規模で総額120兆円を超える不況対策を実施した。

だが景気は回復せず、不況は長期化した。高度成長期にあれほど切れ味がよかった財政、金融政策による景気浮揚策が90年代の不況にはほとんど効果がなかった。

90年代の経済成長率は年率1.4%まで大幅に低下した。2000年に入ってからの10年間では1%を割り込み年率0.7%まで低下した。2011年からの10年間も年率で1%を割り込んだ。

ちなみに2011年度の実質GDPは約514兆円、10年後2020年は約527兆円に止まった。10年間でGDPはわずか13兆円しか増えなかった。日本は90年半ばから今日まで約30年近くをゼロ成長に近い状態で低迷している。戦後の日本、特に60年代から80年代の30年間は日本が最も栄えた黄金時代、別名渋沢資本主義の時代だったが、90年代半ばからの30年間は戦後最も暗い「失われた30年」に落ち込んでしまった。一人当たりGDP(2022年現在)もOECD加盟38か国中21位まで後退、アメリカの半分、韓国に追い抜かれそうな状態だ。現状が続けば「失われた30年」が「失われた40年」に長期化しかねない。

バブル崩壊後、日本が失速してしまった最大の理由は、90年代に入る前後から顕著になった日本を取り巻く内外の大きな構造変化に政治も行政も企業も積極的に対応できなかったことである。いや、対応できなかったというより、構造変化に積極的に対応しなければ、経済活動に深刻な影響を与えることを理解できなかったのである。構造変化は大きく3つ指摘できる。

 △冷戦終結と市場経済の拡大

第一は経済のグローバル化だ。戦後世界を二分し、長く続いた米ソ冷戦時代が終結し、90年代に入ると、旧ソ連・東欧陣営が一斉に西側の市場経済に移行した。それまで日本を含む先進国市場を支える人口は約8億人だったが、新規に旧ソ連・東欧人口約4億人が加わった。これに加え人口13億人を抱える中国など勃興期を迎えた東アジア諸国が市場経済の有力な担い手として登場してきた。この結果、世界の市場経済の規模は冷戦時代の3倍以上に拡大した。国際分業も冷戦時代の垂直分業から水平分業へ移行し、先進国企業を先頭に各国企業が経済活動のグローバル化を急速に進めた。

△IT革命の進行とビジネスのスピード化

第2がIT(情報技術)革命だ。70年代から80年代にかけて低迷したアメリカだが、90年代に入り、IT革命が起こった。IT革命の拠点はシリコンバレーだ。アメリカ西部海岸、カリフォルニア州北部のサンフランシスコ・ベイエリアの南部に位置するサンタクララバレーおよびその周辺に多数の半導体メーカーが集まった。半導体の主原料がシリコンだったため、この一帯がシリコンバレーと呼ばれている。近くに立地するスタンフォード大学やカフェにはこの分野の専門家や実務家が集い、喧々諤々の議論が盛んだった。この地域からアップル、インテル、グーグル、フェイスブック(メタ)、ヤフー、シスコシステム、アマゾン、マイクロソフトなどのインターネット関連企業が多数生まれ、IT関連企業の一大拠点になっている。IT企業の急速なグローバル化によって、ネット決済が簡単になりビジネスのスピード化が一気に進んだ。

△ミルトン・フリードマンとアメリカ型経営の隆盛

第3がアメリカ型経営の隆盛だ。石油ショックに伴う70年代のスタグフレーション克服の具体的な政策理論の提唱者としてシカゴ大学教授、ミルトン・フリードマンの研究が評価され、76年にノーベル経済学賞を受賞した。彼は金利の引き下げ、財政支出拡大で不況脱出を図るケインズ政策を否定し、貨幣供給量(マネーサプライ)の経済に与える役割を重視する。貨幣供給量は短期の景気変動、長期のインフレーションに決定的な影響を与えるとして、通貨供給量の増加率を一定に保つことで、インフレを抑制できると主張した。当時のアメリカでは経済成長率が年率平均約3%、通貨の流通速度などを考慮し、通貨供給量は年率4%程度増加させることで、安定した経済成長と物価抑制が可能になると説いた。このように貨幣供給量伸び率を一定に保つ方法が「X%ルール」である。

新自由主義の旗手、フリードマンとその賛同者らは、はさらに、企業の目的、役割を明確化した。企業は株主のもの、経営者は株主に最大利益をもたらす行動をする、企業で働く従業員は生産財のひとつ、不況になれば解雇するのは理に適っている。さらに短期の利益追求を目指すなどアメリカ型経営の核心を示した。さらに政府の介入を極力控えることが好ましいと指摘している。

△日本型経営の欠陥が浮き彫り

IT産業を支えたアメリカ型経営は、渋沢資本主義を支えた日本型経営を否定する内容となっている。バブル崩壊前の日本では、垂直分業が支配的だった。原材料を途上国から輸入し、必要な部品を造り、それらを集め国内で完成品に仕上げていた。経済のグローバル化が進み水平分業が可能になると、海外から安い部品を購入する、海外に工場進出し、割安の賃金で部品を生産するなどの対応が日本の企業に求められたが、それに対応できず、急速に国際競争力を失った。

経営のスピード化が求められる時代になったにも関わらず、時間がかかるボトムアップ方式の経営から転換できず、商機を失う企業が増えた。

企業業績が低下する中で、余剰労働が急増したが、労使協調路線の日本型経営は速やかに対応できず、過剰労働が企業の採算を悪化させた。

この段階で、多くの日本企業はこれまでの日本型経営を時代遅れと切り捨て、勢いのあるアメリカ型経営に救いを求め、雪崩を打って飛びつき、日本型経営は崩壊した。それに伴い渋沢資本主義も幕を閉じた。

 △新1万円札の顔、渋沢の登場

「失われた30年」を経て、なお日本の前途には多くの暗雲が立ち込めている。アメリカ型経営は多くの国で貧富の格差拡大、中産階級の没落を引き起こし、深刻な分断社会を生み出している。地球温暖化に伴う気候変動、地球規模での天然資源の枯渇化、パンデミック(世界的な大流行)を引き越したコロナ禍など活発な人間活動が地球の限界に突き当たっている。打開策はあるのだろうか。

来年(24年)4月頃、新1万円札の顔として渋沢が登場する。渋沢死後93年目にあたる。この機会に改めて「渋沢が愛した資本主義」とはどんなものだったのかを現代の目で再検討してみる価値がある。少なくともアメリカ型経営に支えられ、分断社会をつくりだす今日主流の資本主義ではない。渋沢の愛する資本主義とは企業性善説、企業を公共財に近い存在として位置づけ、「経済と道徳の両立」に基づく規律ある経済行動で、世のため人のためになる事業を展開することだ。剥き出しの利益追求、地球の限界を超えた経済活動の自粛、極端な貧富の格差拡大の是正などに挑戦する事業体として「企業」に新たな光と役割を付加することだ。国連のSDGs(持続可能な開発目標)提案もその一つだろう。だが、渋沢という卓越した実業人の経営哲学、思想が日本型経営を生み出したように、そこを出発点として日本が他国に先駆け、一つの地球と折り合える新たな企業行動の規範をつくり世界に広げていくことが求められる。その試みこそが「渋沢が愛した資本主義」を実現するための大きな一歩につながると筆者は信じている。

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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