26回 日本型経営、実力発揮の80年代
△軽薄短小型産業の隆盛
80年代の日本経済は鉄鋼、非鉄金属、造船、大型工作機械などの重厚長大型産業からマイクロエレクトロニクス(ME)やメカトロニクスを駆使した技術集約型の軽薄短小型産業へと産業構造を急速に転換させる時代に当たっていた。
「ジャパンアズナンバーワン」の著者、エズラ・F・ボーゲルは「日本型経営が生まれたのは高度な技術を要する、重工業であった」と指摘している。その指摘は正しいが、その後の軽薄短小型産業において日本型経営はさらに大きな力を発揮した。自動車メーカー、トヨタの「ジャストインタイム方式」(必要なものを、必要な時に、必要なだけ、つくる生産方式)や様々な改善、改良を取り入れながら柔軟に対応する小グループ責任制、ボトムアップ方式の人事管理方式などの日本型経営が企業の生産性を飛躍的に高めた。日本型経営は欧米から導入した新技術の産業用ロボットやNC(数値制御)工作機械などによる自動化、コンピュータ化などの利点、長所を巧みに組み合わせ、それを生産現場や営業活動に持ち込み、経営全体の効率化に結び付けた。
80年から85年までの5年間に製造業全体の生産は約15%増加した。同じ期間、電気機械の生産は2.1倍、半導体は4.3倍、コンピュータ2.3倍、精密機械は1.7倍に増えた。重厚長大型の鉄鋼、非鉄などの素材産業の生産は横ばい、繊維は減少している。
△日本型経営の成功が貿易摩擦を生む
80年代前半は第二次石油ショックによるインフレ対策で公定歩合は80年3月には史上最高の9.0%に引き上げられた。この結果、インフレは沈静化したが代償も大きかった。景気は下降に転じ、80年代前半は3年間に及ぶ戦後最長(36カ月)の景気後退に陥った。経済成長率は年率平均3%台で低迷し、「冬の時代」と呼ばれた。
日銀は景気の急激な落ち込みを回避するため、9%に引き上げた公定歩合を5カ月後の80年8月に0.75%引き下げた。その後も立て続けに引き下げ、83年10月の公定歩合は5%の水準まで低下した。後で判明したことだが、景気は83年1~3月期を底に回復に向かっていた。
景気回復を牽引したのが自動車、家庭用VTRなどの家電製品、半導体など軽薄短小産業だった。日本型経営の成功によって、日本製品の国際競争力は急速に高まったが、それが逆に日米貿易摩擦を引き起こすという皮肉な結果を生み出した。
△日米貿易摩擦と日本車の輸出台数自主規制
80年代の日米貿易摩擦は自動車から始まった。2度にわたる原油価格の暴騰(石油ショック)がアメリカの自動車産業を直撃した。ガソリン消費量の多い大型車の購入をアメリカ人が忌避し始めたのである。アメリカ車の売れ行きが落ち、代って日本車やヨーロッパ車の輸入が増えた。
80年の米ビッグスリー(GM、フォード。クライスラー)の決算は惨憺たるものだった。3社とも創業以来の大幅赤字に落ち込んだ。この間、アメリカ乗用車市場での日本車のシェア21.3%へ高まった。アメリカの生産が減る一方で日本が増えたため80年の日本の乗用車生産台数(703万台)は世界のトップに躍り出た。
こうした状況の中で、自動車をめぐる日米貿易摩擦が発生した。アメリカ側は摩擦回避のため、トヨタや日産などの日本の主力メーカーの工場進出を望んだがうまくいかなかった。米議会では「保護主義法案立法を発動して日本車を締め出すべきだ」といった過激な動きが目立ってきた。この当時、日本は鈴木善幸首相、アメリカはレーガン大統領だった。両国の閣僚、担当者などの再三の交渉の結果、両国は81年度の対米輸出168万台で合意した。自動車の対米自主規制は80年代にと止まらず、90年代に入ってからも継続された。
△半導体摩擦、関税引き下げで対応
半導体や電気通信などのハイテク産業をめぐる日米摩擦が本格化したのも80年代前半だった。摩擦の性格も自動車など伝統産業と比べかなり異なる側面を持っていた。先端産業分野だけに「将来を左右しかねない」という危機意識が強く、アメリカは技術開発政策を中心に日本の産業政策そのものを「不公正」だとして批判のやり玉に上げてきた。その基本的背景として日本のハイテク製品の競争力が急速に向上し、アメリカ企業を脅かし始めたことが挙げられる。半導体摩擦は80年2月に日米半導体貿易収支が日本側の出超となったあたりから激しくなった。日本メーカーが強かったのは汎用メモリーで、当時最も使われていた16キロビットのランダムアクセス・メモリーではアメリカ市場の40%前後を日本が占めていた。
アメリカの対日批判は日本の産業保護政策にも向けられた。第一は関税である。半導体関税は当時、日本10.1%、アメリカ5.6%だった。79年に決着した東京ラウンドで、日米両国は87年までに4.2%まで引き下げることで合意していたが、アメリカは早期引き下げを強く求めてきた。双方の協議により、日本は82年4月から、アメリカは83年1月から4.2%へ引き上げることで合意ができた。
アメリカは関税引き下げのほか、①政府助成の研究開発プロジェクトへの外資系企業の参加、⓶政府の資材調達でアメリカ企業排除を撤回させる、など日本市場開放についても厳しい要求をしてきた。
日本型経営の成功が保護主義的色彩の濃い日本市場の解放を求める外圧になったことも興味深いことだ。
△プラザ合意と円切り上げ
85年9月22日(日)、ニューヨークのプラザホテルで開催された先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で「ドル以外の主要通貨がドルに対して秩序だってさらに上昇することが望ましい」との「プラザ合意」が発表された。
週明けの翌日、月曜日から各国通貨当局はいっせいにドル売り、自国通貨買いの為替介入を実行し、行き過ぎたドル高は急速に修正されていった。円の対ドル相場も大幅に上昇した。プラザ合意以前の1ドル=250円台から同年暮れには200円を切る水準まで跳ね上がった。
円高の動きは87年いっぱいまで続き、87年末から88年初めにかけて120円台を付けるところまで上昇した。2年ちょっとの間に、円のドルに対する価値は約2倍に引き上げられたことになる。
円高による景気への悪影響を恐れた日銀は86年1月から87年2月にかけて公定歩合を立て続けに5回引き下げ、公定歩合水準は当時としては史上最低の2.5%になった。マネーサプライ(通貨供給量)も拡大させたため、87年から88年にかけてマネーサプライの前年増加率は10%を超え、カネ余り現象が生じた。
超金融緩和を背景に、まず株価、地価が暴騰する。日経平均株価でみると、プラザ合意直後の85年9月24日の終値は1万2755円だった。それが87年1月30日には2万円の大台に乗った。88年10月のブラック・のマンデーで一時的に下落したものの、その後は上昇を続け、89年末には市場最高値の3万8915円を記録した。プラザ合意直後の3倍以上の水準で、今日に至るも破られずにいる。
一方、地価も急騰した。85年を100とすると、91年には東京、大阪などの大都市の地価は2~3倍まで上昇した。株価、地価の上昇は実体経済にも短期間で波及し、日本はバブルの時代へ突き進む。
80年代の日本は、日本型経営が成功し、日本産業の国際競争力が世界一に上り詰める過程で、貿易摩擦や大幅な円高をもたらしたのである。
2023年5月30日記