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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

24回 渋沢資本主義ど真ん中の60年代

〈〉10年間、10%成長実現、世界の奇跡

△60年代にGDPは4.5倍に拡大

経済立国を目指して立ち上がった日本、それを支える企業群は短期間にたくましく成長した。戦前から続く渋沢系企業群、同友会系企業群、創業者系企業群の多くは積極的な設備投資により大企業に成長し、日本経済の屋台骨を支えた。さらに注目すべきは様々な業種で新たに開業する企業が全国各地で「雨後の筍」のように増えた。

「昭和経済史」(日経文庫、有沢広巳、監修、中)、4篇の高度成長の展開(昭和30年代)の冒頭の書き出しは、当時の産業界に漲(みなぎ)る熱気を生々しく描いている。

展望1 「狂瀾怒濤の中の成長」で次のように述べている。

「昭和30年代は、成長の時代であった。20年代の復興期に根を張った日本経済は、30年代に入って、にわかに根を伸ばし、枝を広げ、葉を繁らせて、40年代を迎えるころには、世界という森の中でも有数の大樹となっていた。・・・30年代の経済は安定成長ではなく、ダイナミックな波動を伴った成長をした」

昭和30年は西暦では1955年である。それから5年後の1960年(昭和35年)、日本の経済成長率(実質ベース)は前年比13.1%増へと大きく飛躍した。50年代後半も比較的高い成長が続いたが、10%台は未達成だった。60年の高度成長を支えたのが民間設備投資だった。前年比44.1%増の驚異的な伸びを示した。これが当時岩戸景気と呼ばれた好況である。岩戸景気は昭和33年6月から36年12月まで42カ月、戦後最長の上昇局面を記録した。

「昭和経済史」はさらに続ける。

「これによって、日本の経済力は飛躍的に高まり、経済の近代化が一段とすすんだ。昭和35年には貿易自由化計画が発表され、国民所得倍増計画が決定され、日本経済の国際化と高度成長とが経済政策の目標としてかかげられた」

60年から10年間、日本の経済成長率は年率平均で10%を超えた。世界でも前例がなく、世界の奇跡といわれた。60年の名目GDP(国内総生産)は約16兆円だったが10年後の70年には約4.5倍の73兆円に拡大している。

新規企業も急増した。中小企業白書などによると、66~69年の3年間の企業の開業率は年率6.5%、69~72年は同7.0%、同じ期間、廃業率はそれぞれ3.2%、3.8%だった。開業率と廃業率の開きが大きいほど、新規企業の増加が盛んなことを示している。高度成長期の6年間だけでも、約100万の新規企業が誕生した。

△東京オリンピックの年に、名神高速道路、東海道新幹線開業

東京オリンピックの1964年には東海道新幹線が営業を開始し、名神高速道路が開業した。68年には日本のGDPがドイツ(西ドイツ)を上回りアメリカに次ぐ世界第二の経済大国になった。経済発展を生きがいにしてきた日本人には大きな自信となる。

国民の生活水準を表す一人当たりGDPも1960年の約17万2000円から70年の約70万8000円へ拡大した。4.2倍の増加である。

 空前の消費ブームが起こった。テレビは60年に白黒テレビの普及率は54.5%だったのが70年には90.1%へ広がった。60年にはまだなかったカラーテレビも30.1%まで普及した。電気洗濯機も45.4%から92.1%へ、電気冷蔵庫は15.7%から92.5%へ。家電製品は10年間で大幅に普及し、国民は豊かさを肌で感じた。

〈〉円切り上げと石油ショックの70年代

70年代に入ると、日本は激動する世界経済の渦に飲み込まれていく。71年(昭和46年)8月、ニクソン米大統領が発表したドル防衛対策(ニクソンショック)に対応して、日本は同年12月に16.88%の円切り上げに踏み切る。それまでの1ドル360円から308円に切り上げられた。しかしドル不信は根強く、国際通貨不安がますます激化してきたため、固定相場制の維持が難しくなった。73年1月から3月にかけて円を含む主要通貨は一斉に変動相場制に移行した。

同じ年、73年10月、第4次中東戦争が勃発した。これを機にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は「石油戦略」を打ち出した。この結果、原油価格は急騰、代表的な油種であるアラビアン・ライトでみると、戦争勃発以前の8月の価格(1バレル当たり3.066ドル)と比べ、5か月後の74年1月1日の価格(11.651ドル)は4倍近くも跳ね上がった。物価への影響も大きかった。74年2月の卸売物価は前年同月比37%、消費者物価同26.3%と記録的上昇を示した。当時の福田赳夫大蔵大臣は異常なまでの物価上昇を「狂乱物価」と呼び、「全治3年を要する」と診断した。これが第一次石油ショックである。

第一次石油ショックを乗り越え、ほっとした矢先、第二次石油ショックが発生した。78年(昭和53年)にイランで反体制の暴動が勃発、翌79年1月、イランのパーレビ国王がエジプトに亡命、パーレビ王朝が崩壊する。これがイラン革命だ。イラン革命の混乱で世界の石油生産の約1割、OPEC(石油輸出国機構)の石油生産の同17%を占めるイラン原油の輸出が2カ月間ストップした。

これを好機としてOPEC諸国は再び原油価格の大幅引き上げに踏み切った。アラビアン・ライトの公式販売価格を見ると、イラン革命が進行中の78年11月の価格は1バレル当たり12.7ドルだった。それが79年に入ると、段階的に引き上げられ、同年末には24ドルと年初の約2倍に引き上げられた。80年4月にはあ28ドルへとさらに引き上げられた。これが第二次石油ショックだ。第二次石油ショックも世界経済を混乱に陥れた。

日本は第一次石油ショックの教訓を生かし、官民一体となり賃金上昇抑制に取り組み、予算も抑制気味に編成した。

一方、日本銀行は公定歩合を大幅に引き上げた。79年4月から徐々に引き上げ、80年に入ると2月、3月と連続引き上げ、上げ幅は2.75%となった。この結果、公定歩合の水準は9.0%となり、第一次石油ショック時と並ぶ史上最高となった。ショック発生前の79年4月以前と比べ、1年足らずの間に公定歩合は5.50%も引き上げられた。この結果、80年5月の卸売物価は前月比わずかながらマイナスに転じ、それを追いかけるように消費者物価も沈静化に向かった。

70年代の日本経済は円切り上げ、二度の石油ショックという大津波に見舞われたにもかかわらず、欧米先進国と比べその悪影響を比較的軽微で乗り切ることができた。これだけの激震に見舞われながらも、70年代の10年間の年率成長率(実質)4.4%を維持し、欧米と比べダントツのパフォーマンスの良さを示した。

60年代の日本は産業構造からみると、重化学工業に支えられて発展した。60年代後半に入ると、鉄鋼、石油化学、造船、一般機械などを中心とする重化学工業の生産額は世界のトップクラスに達した。それを可能にしたのが日本型経営だった。

当時の日本は、将来への明るい期待、若く元気な労働人口、世界一の高度成長、急激に高まる生活水準の向上などを背景に、繁栄する渋沢資本主義のど真ん中の時代にいたといえるだろう。日本は歴史的な黄金時代を迎えていた。その謎解きにアメリカ人の社会学者が挑んだ。

2023年5月26日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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