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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

23回 廃墟からのスタートに3つの追い風

△60年代に10%成長を実現

心機一転、日本再建を目指して立ち上がった多くの企業の前には戦争で焼け野原となった痛々しい日本列島が横たわっていた。家も学校も工場も、さらに道路や鉄道などの社会インフラの多くが破壊されてしまった。焦土と化した日本の将来は暗澹たるものに思われた。

1947年(昭和22年)に発表された戦後最初の「経済白書」は、「国家も赤字、企業も赤字、国民も赤字」と当時の疲弊した日本の姿をリアルに描いている。例えば、小学校6年生の身長や体重は戦前(1937年)と比べ1年ずつ遅れている(当時の6年生は戦前の5年生の体力しかない)、石炭労働者の一人当たり月平均生産高は戦前(1936年)17.5トンに対し、1947年は5トン程度と三分の一以下にまで落ち込んでしまったなどと衰退の姿を具体的な数字で示している。当時の日本は、世界の最貧国に転げ落ちてしまったのである。

それからわずか10数年の間に日本は「世界の奇跡」と言われるような経済発展を遂げ、世界を驚かせた。

最初の経済白書発表から3年後の1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発した。戦争に伴う特需によって日本経済は息を吹き返した。60年代に入ると、日本は高度成長期を迎えた。年率10%(実質)を超える高度成長の時代が10年近く続き、日本は最貧国から先進国への階段を一気に駆け上った。

なぜこのような「奇跡」が起こったのだろうか。筆者はその理由として戦後生れの日本型経営が大きく貢献したと考えている。

△企業性善説

すでに指摘したように、日本型経営は戦前から引き継がれてきた「渋沢イズム」と戦後導入された近代欧米経営とが合体したハイブリッド経営である。渋沢イズムは企業性善説が前提だ。全国から有能な人材、資本を集めて、世のため人のためになる事業を起こす。その事業体が株式会社にほかならない。だから企業(株式会社)は善でなくてはならない。安価で良質の製品、サービスを大量に生産し供給することが、国を豊かにし、国民を幸福にする。令和時代の今日ではすっかり古い言葉になり使われなくなったが、渋沢の時代に盛んに使われた「国利民福」である。国利民福を実現させるのは、企業が大きく成長し存続し続けることが望ましい。

企業を大きくするためには、労使が対立していてはだめだ。労使が一体となって企業を発展させ、利益を上げ、その一部を税金として国家に納めることで社会に貢献できる。労使協調路線を推進する過程で、終身雇用、年功序列型賃金体系、短期の利益追求よりも長期の利益追求など日本独特の経営システムが形成されていく。

△低い株主の地位

日本型経営システムのもう一つの特徴は、資本家(株主)の位置づけが極めて低いことである。企業運営は経営、資本、労働の3本柱で構成される、というのが近代経営学の基本だ。だが、戦後の日本では、「経営と労働」の結び付きが強い半面、法律上、株主総会が最高の意思決定機関であるにもかかわらず「お飾り的な存在」で実権はほとんどなかった。「物言う株主」が大きくクローズアップされ、会社側の経営方針に堂々と異議を唱える株主が目立つ今の日本ではとても考えられない姿といえよう。

△戦争放棄、りオア・エロア基金、1ドル=360円

日本型経営が、敗戦から立ち上がり、経済を発展させるために大きな役割を果たしたことは確かだが、さらに幸いだったことに3つの追い風が日本企業の背中を押してくれた。

第一が新憲法、9条の戦争放棄である。戦時日本は戦争遂行のため、国家一丸となってあらゆる経済活動や国民生活を統制下に置く国家総動員法(1938年=昭和13年)などの統制関連諸法が制定され、企業の自由な活動が規制され、思想、言論弾圧が日常化する暗黒の時代だった。

戦後の日本は戦時体制から解放され、戦争に代わり経済活動を通して平和な日本の再建を目指すという新しい国家目標が明確に示されたことである。日米安保条約によって、日本の防衛は大きく米国に依存することになった。日本は防衛予算を極力抑え、石炭、石油などのエネルギー資源、鉄鋼や銅、アルミニウムなどの輸入原材料資源などを集中的に経済部門に投入することが可能になった。

第二の追い風は米国の占領地援助資金、ガりオア・エロア基金である。ガリオア基金(占領地域救済政府基金)は占領地域の飢え、病気、社会不安を除くため、食料、肥料、医薬品などの生活必需品を供給、エロア基金(占領地域経済復興基金)は占領地域の経済復興を支援するため綿花、鉱産物などの工業原料、機械などの資本財の供給を狙いとした米国の援助。

外務省によると、1946年から51年にかけて約6年間にわたり日本が受けた援助総額は約18億ドル、このうちの13億ドルが無償援助(贈与)だった。現在の価値(1ドル=130円)に換算すれば23兆4000億円(無償16兆9000億円)の膨大な援助であり、この援助なしには日本の復興はありえなかっただろう。

第3の追い風になったのが1ドル360円の為替レートの設定だ。GHQ(連合国総司令部)は、1949年(昭和24年)4月23日、日米為替レートを1ドル360円に設定すると発表、4月25日から実施された。終戦直後の日本の貿易収支は大幅な赤字となった。たとえば、昭和21年(1946年)、22年(1947年)の輸出はそれぞれ、1億ドル、1.7億ドル、これに対し輸入は3億ドル、5.3億ドルだった。GHQは米国FRB(米連邦準備制度理事会)の調査部次長、ラルフ・ヤング調査団の報告などを参考に、日本の経済活動に支障にならない為替レートとして360円を設定した。

1ドル=360円の固定為替相場の時代は1971年12月にワシントンのスミソニアン博物館で開かれたIMF10か国グループ(G10)の蔵相会議で1ドル=308円(16.8%の切り上げ)へ切り上げられるまで22年間続いた。

日本は米欧から先端技術を積極的に取り入れ、次々最新工場を設立したため、日本の国際競争力は短期間に急速に強化された。1ドル=360円は日本にとって大幅な円安状態になった。輸出が輸入を大幅に上回る貿易収支の黒字も短期間に常態化した。

日本型経営に支えられた渋沢資本主義は順風満帆でスタートできたのである。

2023年5月25日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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