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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

21回 日本型経営が支える戦後日本の経済発展

△渋沢イズムは企業性善説が前提

戦後日本の経済発展を支えた日本型経営は大きく二つの要素から成り立っている。一つは渋沢イズム(渋沢型経営)を体現した500を超える企業の経営である。渋沢は闇雲に企業を立ち上げたわけではない。時代が必要とする企業、外貨を稼ぐ輸出企業、経済発展を円滑にすすめるための経済インフラ企業(金融機関、鉄道、電気、ガスなど)など時代のニーズに合致した企業群を創設した。さらに企業の資金調達の場として東京証券取引所、企業間の決済手段の場である手形交換所(2022年11月から電子交換所に移行)、経済人の意見交換や経済活動のルールや制度改革などの要望を政府に伝える場として東京商工会議所、さらに全国銀行協会などの設立にもかかわっている。

これだけの大仕事をしたにも拘わらず、渋沢は財閥をつくらなかった。渋沢は「もし、自分が財閥を目指していたらいまの三井、三菱ぐらいになっていただろうよ」と冗談めかして言ったことがある。だが、渋沢には財閥づくりには関心がなかった。今日、渋沢の名前を残す上場会社は渋沢倉庫ぐらいである。渋沢は私利私欲に溺れることが無かった。「国利民福」、経済を通して国を豊かにすることが国民の幸福につながるという大志を抱きその目標に向け、東奔西走の人生を送った。国家、国民のために自分ができることは何かが常に彼の関心事だった。

渋沢は多くの企業を立ち上げるとともに、企業人の心構えや行動原理、原則について多くの訓話、講話を残している。「論語と算盤」もその一つだ。パリ留学で得た合本組織、今日の株式会社は、全国から優秀な人材と同時に全国各地に散在する小資本を集め、大きな資本にして世のため、人のためになる事業を展開する。その事業主体が株式会社に他ならない。事業が大きく発展すれば、国を豊かにし国民に幸せをもたらすことができる。渋沢にとって企業(株式会社)は善、公共財なのである。渋沢イズムは企業性善説が前提となっている。世の中を豊かにする企業が大きく発展していくことは望ましことなのだ。目先の短期の利益追求より、長期的視点に立って投資を実施し公正な競争によって適正利益を得る。そのためには企業の永続性が望ましい。目先、赤字が予想されても、その事業が国家、国民のためになるなら恐れずに挑戦する。経営にあたっては「道徳と経済の両立」を守り抜く。労使は家族のような関係にあるので、対立は好ましくない。労使協調路線は大切だ。

△渋沢企業の主峰、準主峰、名峰

渋沢が戦前創設、運営に携わった企業の多くは100年の歳月を経ていまや大企業に育っているものも少なくない。そのいくつかは日本の企業山脈の主峰、準主峰、名峰としての地位を不動のものにしている。この中には、設立当初の企業名とは異なる名称として存在しているケースも少なくない。

東京商工会議所調べ(2019年10月現在)によると、渋沢が設立ないし運営に関係した企業で今日も活躍している企業は186社あるという。その中の代表的な企業名(現在の呼称)、団体名を以下に列記しておこう。

金融関係:日本銀行、みずほ銀行、りそな銀行、東京海上火災、輸送等:JR東日本、東急電鉄、京阪電鉄、日本郵船、日本航空、渋沢倉庫、エネルギー:東京電力、東京ガス、大阪ガス、製造業:王子製紙、片倉工業、東洋紡、石川島播磨重工業、川崎重工、東京製綱、太平洋セメント、サッポロビール、キリンビール、建設:清水建設、大成建設、サービス・団体など:帝国ホテル、東京会館、理化学研究所、東京商工会議所、東京証券取引所、全国銀行協会

 

△ハイブリッド経営

日本型経営が完成するためには、もう一つ新しい要素が加わる。戦後、日本企業は積極的に欧米先進国から最新の経営手法を取り入れ、実際の経営に役立てた。

その点からいえば、日本型経営は渋沢イズムと近代欧米型経営が合体したハイブリッド経営といってもよいだろう。渋沢イズムは企業性善説に基づく企業経営の理念、哲学に特徴がある。一方、欧米型経営は、企業が利益を上げるための具体的経営手法に特徴がある。たとえば、企業の総合戦略、工場現場の効率化(分業化、ベルトコンベア方式の導入など)、市場調査、広告戦略、会計・経理処理、人事政策などである。日本の企業は、両者の利点、長所を巧みに生かし、日本人の性格に合わず、好ましくない部分は切り捨てることで、日本独特の経営スタイルを作り上げることに成功した。それが日本型経営である。ハイブリッド化することで、単体としての渋沢イズム、近代欧米型経営と比べはるかに良質で競争力のある経営システムが誕生した。

△経済同友会発足

話は少し戻るが、それでは近代欧米型経営はどのようにして日本に導入されたのだろうか。

財閥解体は経営者の若返りを一気に進めた。戦前、戦中の企業の舵取りをしていた旧経営陣が一掃されたため、大企業の経営の舵取りは40歳前後の部長クラスの中堅幹部が担うことになった。突然大任を任された若手経営者たちは戦後の混乱を乗り越え、新生日本の発展のために意気軒高だった。

新時代の企業活動を積極的に推進していくためには一人の力には限界がある。同じ思いの若手経営者が集まり、これからの日本の針路、経営システム、企業と社会の望ましい在り方、国際戦略などを幅広く議論し、望ましい方向に日本を導いていかなければならない。そのために切磋琢磨するための組織として、昭和21年(1946年)4月30日、経済同友会が設立された。米国の青年会議所や全米製造業者協会を参考に、若手経営者が出身企業に縛られず、自由闊達に意見交換ができるように、個人資格で参加する経済人クラブである。スタート時の経済同友会の幹事には、永野重雄(日本製鉄取締役、45歳)、諸井貫一(秩父セメント常務、50歳)、堀田庄三(住友銀行東京支店長、47歳)、桜田武(日清紡績社長、42歳)、(郷士浩平(重要産業協議会事務局長、45歳)、大塚万丈(日本特殊鋼管社長、49歳)、鹿内信隆(日本電子工業常務、34歳)、鈴木治雄(昭和電工常務、33歳)など30名近くが名を連ねた。彼らの多くは10数年後の高度経済成長期(1960年代)には押しも押されもしない実力経営者に育っていく。

若手経営者集団の経済同友会は、先行する欧米の企業行動や経営理念などを積極的に研究し、必要なものはどんどん取り入れていく姿勢を強めた。

たとえば、1947年1月に大塚万丈を委員長とする経済民主化委員会がスタートした。大塚は精力的に調査活動を進めた。企業活動の中心は株主ではなく経営者に置かれるべきであるとしたジェームズ・バーナムの「経営者革命」などを参考にして8月には「大塚試案」をまとめた。その骨子は

1企業は経営、資本、労働の3者で構成される共同体である

2企業の最高意思決定機関として「企業総会」を置き、経営、資本、労働の3者の代表で構成する

3企業利潤の配分は、経営、資本、労働の3者が対等の権利を有する

という画期的な内容だった。当時としてはあまりにラジカルだったため、保守派の経済人からは「資本主義の否定につながる」などの激しい批判が噴出した。しかし労使協調で問題の解決を図るという修正資本主義的考え方は、その後の同友会のコンセンサスになり、高度成長期に開花する日本型経営の重要な柱として定着する。

1948年(昭和23年)には労働問題を専門に取り扱う経済団体として日経連(日本経営者団体連盟)が設立された。

 

日本型経営は、渋沢イズム(渋沢型経営)と欧米、特に米国から取り入れた最新の経営手法を合体させ、戦後誕生したものだ。日本型経営はすでに指摘したように、両者の良い部分を取り入れたハイブリッド経営だ。日本型経営は、鉄鋼、石油化学、造船、一般機械などを中心とする重化学工業の生産性を飛躍的に拡大させた。日本型経営に支えられた戦後日本のダイナミックな経済発展を総称して筆者は渋沢に敬意を払い、渋沢資本主義と名付けている。

2023年5月22日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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