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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

20回 戦後の民主化 渋沢資本主義が羽ばたく時代に 

△新憲法の制定、財閥解体、農地解放、労働の民主化

1945年(昭和20年)8月15日。日本は無条件降伏した。渋沢没後、14年の歳月が過ぎていた。この年、広島、長崎に原発が投下され一瞬にして爆心地が消滅した。東京、大阪などの主要都市では軒並み家や工場が空襲で破壊され、日本は焦土と化した、約900万人の国民が家を失った。

戦後日本の占領期に全権を握ったのはGHQ(連合国最高司令官総司令部)だった。日本が敗戦を受け入れた8月15日以降、GHQ最高司令官の職務に就いたのは、米太平洋軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥だった。

GHQは日本を戦争にかりたてた軍国日本の戦時体制の解体に積極的に取り組んだ。国家一丸となって戦争を遂行するため、あらゆる経済活動や国民生活を統制下に置くために制定された国家総動員法(1938年=昭和13年)をはじめとする一連の統制関連法の廃止、思想、言論弾圧規制の撤廃などだった。

そのために、GHQが最重要課題として取り組んだのが旧憲法の自由主義化だった。新憲法、日本国憲法はGHQの意見を参考にし、1946年(昭和22年)11月3日に交付され、翌年47年(昭和23年)5月3日に施行された。新憲法は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原則としている。特に戦争放棄を定めた憲法9条の制定はその後の日本の政治、経済、社会、文化のあらゆる面で大きな影響を与えた。

新憲法の実施と並んでGHQが戦時体制一掃のために取り組んだのが⓵財閥解体、⓶農地改革、⓷労働の民主化だった。

⓵財閥解体

GHQは早くも1945年9月に「初期の対日方針」を明らかにし、その中で「日本の商工業の大部分を支配する産業と金融の大コンビネーションの解体」を掲げた。いわゆる財閥解体だ。9月下旬にGHQは、三井、三菱、住友、安田の4大財閥の代表を呼び、財閥解体の方針を伝えた。財閥側は激しく抵抗し、自主的改革を通して解体を回避しようとしたが、GHQは認めなかった。逆に財閥を戦犯の一翼と位置づけ、財閥の持ち株会社の解散、財閥家族の持ち株の放出、会社役員からの追放などにより、旧経営陣の会社支配力の一掃を目指した。

財閥解体は熾烈をきわめ、1947年(昭和22年)春までに4大財閥本社の解体だけではなく浅野、中島、古河、大倉、鮎川、大原、片倉などの中小財閥の解体、さらに南満州鉄道、台湾銀行などの植民地企業の解体にまで広がった。この結果、大企業を中心に多くの財界人が役員から退陣し、中堅企業の役員も一斉に退陣を強制された。その結果、約1500人に達する経営陣が姿を消した。

⓶農地改革

1946年(昭和21年)から49年(同24年)にかけて実施された農地改革は、封建色の強かった旧来の地主的土地所有を一掃し、地主・小作関係に大変革をもたらした。日本の農地制度が軍国主義日本を支える一翼を担っていたことから、GHQは徹底した改革を求めた。

46年9月に政府はGHQの意向を反映させた「農地調整法改正法案」と「自作農創設特別措置法案」を成立させた。

その骨子は、不在地主の小作地全部と在村地主の小作地を2か年以内に政府が強制買収する。それは原則として小作人に売り渡される。小作農には24年間の年賦払いが認められた。その結果、49年9月には小作地の81%にあたる耕地が解放され、残存小作地の総耕地面積の占める割合は9%まで激減した。農地改革によって、日本の農家の大部分が自作かそれに近い自小作になった。農地改革の結果、地主階級(山林地主は対象外)は没落したが、その半面、自作農家体制下で農業投資が増え、その後の食糧増産、農業の技術革新への道が開かれた。

⓷労働の民主化

戦時体制を支えた国家総動員法の下で、労働者の移動、労働条件などは厳しく規制されていた。GHQは戦時体制打破の一環として労働の民主化が急務と考えた。マッカーサー元帥は、日本上陸後、間もない1945年(昭和20年)10月、就任間もない篠原喜重郎首相(45年10月9日~46年5月22日)に「人権に関する5大改革」を提示した。その中に労働組合結成の方針が示されていた。この要請を受け政府は1カ月余の超スピードで労組法案を作成した。同法は12月22日に公布され,翌年46年3月1日施行された。同法は労組の団結権、団交権、争議権を求め、黄犬契約(おうけんけいやく)の禁止(注)、独立行政委員会の性格をもつ労働委員会制度の導入などが盛り込まれ、画期的な内容だった。労組法制定時に約38万人だった組合員数は、労組法施行後300万人と10倍近く増加した。

(注)雇用者が労働者を雇用する際に、労働組合に加入しないことや労働組合から離脱することを条件にした労働契約。黄犬は英語のイエロードッグの日本語訳、イエロードッグは「卑劣なやつ」といった意味があり、労組側から見れば不当契約とみなされる。

労組法に続いて、政府は労働関係調整法(46年9月公布)、労働基準法(47年7月公布)を相次ぎ成立させた。これにより、戦後の民主的労働環境の基礎が出来上がった。

 

新憲法のもと、戦争を放棄した日本は、新たな国家目標として経済立国を大きく掲げ動き出した。最初に立ち上がったのが経済界だった。渋沢資本主義が大きく羽ばたく時代がやってきた。

2023年5月20日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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