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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

19回 田園都市会社の設立、関西の雄、小林一三に助言求める

△渋沢、78歳の挑戦

渋沢は地方の特産品や原材料物資の輸送を主目的にした民営鉄道を数多く設立したが、それだけにとどまらなかった。現在の私鉄につながる民営鉄道の設立にも熱心だった。経済が発展してくれば、経済活動に携わる人々や学生が通勤、通学に通うための鉄道が必要になる。さらに人口増加によって、鉄道沿線の地域開発も活発になる。明治維新当時の東京や大阪では、多くの会社はまだ家業の域を出ず規模が小さかった。従業員の多くは生産現場に近いところに住んでいた。職住近接である。経済が発展し、人口が増えてくれば、多くの勤労者や学生は郊外に住み、鉄道を使って都心の工場や職場、学校に通える。都心部と郊外を結ぶ鉄道は成長産業である、渋沢はこう分析した。すでに明治維新から半世紀近くの歳月が流れていた。欧米にはなお見劣りがするもののアジアの新興国として日本は経済の発展期を迎えていた。

1918年(大正7年)9月、渋沢は宅地開発会社、「田園都市株式会社」を立ち上げた。資本金50万円、渋沢78歳。自ら発起人となった。その前年に第一銀行頭取を辞任、実業界を引退している。自由な身になった渋沢だが、事業欲は衰えることを知らなかった。

渋沢は「人は自然無くして生活できるものではない」という信条の持ち主だ。埼玉県深谷の血洗島村で自然いっぱいの中で農民として育った渋沢には自然へのあこがれが強い。年を経てこの思いは益々強くなった。

渋沢はロンドンの衛星都市レッチワースの「職」「住」近接の田園都市づくりに共鳴し、日本でも同じ発想のまちづくりができないかと考え、田園調布のまちづくりに取り組むことになった。田園調布会の資料によると、田園調布駅を基点にした放射線状の道路や上から見ると扇状の区画は、欧米を視察した四男の渋沢英雄(1892年~1984年)が主導したと言われる。23年に売り出した当初は中流のサラリーマン向けだったが、その直後に関東大震災(1923年)が発生、軍人や裕福な人々が移り住み、高級住宅地になった。

新会社、「田園都市」の役員には渋沢のビジネス仲間が参加したが、肝心の宅地開発のノーハウはゼロに近かった。役員を引き受けていた第一生命の創業者、矢野恒太(1866年~1951年)は、鉄道敷設と沿線開発を一体化して成功させた関西の財界人、小林一三(阪急鉄道の創設者、1873年~1957年)に経営の指導を受けるよう渋沢にアドバイスをする。

小林は福沢諭吉の慶応義塾卒業後、三井銀行に入行、曲折を経て、1907年(明治40年)民営鉄道、「箕面有馬電気軌道」の設立に携わり、同社の専務に就任した。同社は社長不在だったため、小林が経営の実権を握り、本格的な経営に乗り出した。

小林は「鉄道は移動手段のみにあらず」と提唱し、本業ともいえる鉄道事業を軸にして、沿線で宅地開発、流通事業(百貨店など)、観光事業などを総合的に推進し、相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を作り上げていた。六甲山麓の高級住宅地の開発、阪急百貨店、さらに宝塚歌劇団、東宝、野球の阪急ブレーブスなど芸能、スポーツ、娯楽などの分野でも多彩な事業を展開、今日の阪急東宝グループを作り上げた。

話を戻そう。その当時、45万坪の土地を所有する田園都市会社の経営は苦しかった。渋沢は矢野の提案に飛びついた。ところが小林は中々うんとは言わない。渋沢や矢野が何度も説得した結果、小林は渋々「月に1回、上京し、役員会に顔を出す」ことを承知した。小林は名前も出さず、報酬も受け取らないことを条件に経営に対するアドバイスを引き受けた。 田園都市会社の経営は小林のリーダーシップで動き出した。小林は田園都市会社の経営を軌道に載せるため、鉄道省出身で、鉄道事業に携わっていた五島慶太(1882年~1959年)を新しい経営陣に加えた。田園都市会社の子会社として「目黒蒲田鉄道株式会社(目蒲線)を設立するためである。

1922年(大正11年)9月2日、目黒蒲田鉄道株式会社の創立総会が開かれ、五島慶太が専務取締役となり、経営に当たる。五島は当時未開業の武蔵鉄道(現在の東横線の母体)の経営に携わっていたが、資金繰りに苦しんでいた。小林は「目蒲線を先に建設し、田園都市の45万坪の土地を売り、その利益で武蔵鉄道をやればいい」と説得し、五島に専務就任を決断させたという。

五島は目蒲線を足場に東急グループを拡大し、戦後、押しも押されもしない東急王国を築き上げるが、そのスタート台になったのが100年前の目蒲線建設だったのである。

1928年(昭和3年)5月、田園都市会社は多摩川台地区などの分譲を完了したため、子会社であった目黒蒲田電鉄に吸収合併され、田園都市事業は同社の田園都市部が継承することになった。渋沢が田園都市会社を設立してから10年目のことである。

渋沢の財産は豊富な人脈にある。何か新しい事業を始める場合、その事業を成功させるための多種多様な人材が必要になる。渋沢の豊富な人脈がそれを可能にする。小林や五島との出会いもその一つだ。その人物がいけると思えば、思い切って任せてしまう。失敗のケースもあったが、多くはうまくいった。

それから3年後の1931年(昭和6年)11月、渋沢は91歳で波乱に富んだ人生の幕を閉じる。

2023年5月18日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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