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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

18回 民間で鉄道施設を邁進、日本発展の礎と確信

△蒸気機関車に興奮

渋沢の鉄道への取り組みは気合が入っている。日本列島に鉄道網を築くことで、人や物資の輸送を飛躍的に拡大させる、それが、日本経済の発展に欠かせないとの強い信念からだ。渋沢と鉄道との出会いは徳川慶喜の弟、昭武に同行してパリ万博に派遣された時である。一行は横浜港から出発、エジプトのスエズで下船し、スエズからアレキサンドリアまで鉄道を利用した。イギリスがアジア貿易を独占するために敷設した鉄道で完成後まだ10年程の最新鉄道だった。蒸気機関車が煙を高く噴き上げて客車を引っ張る力強さに渋沢は圧倒され興奮した。地中海を船で渡り、フランスのマルセイユに到着、そこからパリまでまた列車に乗った。万博閉幕後にヨーロッパ各地を汽車で周遊した。鉄道は高い利便性を持つだけではない。新聞や雑誌の輸送、遠隔地の人々とのコミュニケーションなど情報伝達面でも大きな役割を担っている。日本でも鉄道網の敷設を早く進めなければならないと渋沢は深く胸に刻んだ。

△日本初の蒸気機関車、新橋~横浜を35分で走る

日本初の蒸気機関車が新橋~横浜間を走ったのが1872年(明治5年)だった。その頃の日本政府には自力で鉄道建設をするだけの資金も技術力もなかったが、英国の駐日公使、ハリー・パークスが資金調達や技術者派遣で積極的に協力してくれた。100万ポンドの借款、英国人技術者の派遣だけではなかった。機関車、客車、線路やまくらぎ(枕木)、燃料の石炭まですべてイギリスから輸入した。1870年(明治3年)、イギリスからエドモンド・モレルが建築技師長として来日し、本格工事が始まった。日本側からは71年(明治4年)、長州出身の井上勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任し建設を推進した。井上も英国留学組のエリートである。黎明期の鉄道普及に尽力し、後に「鉄道の父」と呼ばれた。筋金入りの鉄道国有化論者で、後に民間鉄道の敷設に邁進する渋沢と対立することもあった。

新橋~横浜間の鉄道は工事開始からわずか2年後の72年6月12日に運転を開始する早業だった。新橋~横浜間29㎞をわずか35分で走り抜けた。同年10月14日、新橋駅で式典が催された。明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が新橋~横浜間を往復した。お召し列車には明治天皇、西郷隆盛、大隈重信などと並んで大蔵省幹部、渋沢の姿もあった。この当時、局長クラスだった渋沢は、財政面から鉄道建設を積極的に支援、推進していた。

江戸時代の旅人は平均約1日10里(40㎞)を歩くのが普通だったそうだ。徒歩で1日弱の距離を30分程で走る鉄道に日本中が驚き、興奮し西欧文明へのあこがれが広がった。鉄道は2年後に神戸と大阪間、3年後に大阪~京都間に開通し、その後全国各地に広がっていった。

大蔵省退任後の75年(明治8年)、渋沢は鉄道事業を将来の成長産業と位置付け、中央と地方のバランスのとれた発展には民間資本による鉄道網の建設が必要と考えた。そのため、三井、三菱などの財閥の支援を受け、新橋~横浜間を走る官営鉄道の払い下げをもくろみ、「東京鉄道」を立ち上げた。鉄道事業は規模の経済が働くので、経済性を高めるため、大資本で取り組む必要がある、そのためには民営化が望ましい、と渋沢は考えたのである。だが先に触れた井上ら国有鉄道支持派は国威発揚(国家が国外に威光を示す事)のために国有化は譲れないとして猛烈に反対したため、渋沢案は受け入れられず、会社は解散に追い込まれた。

△日本最初の民営鉄道会社、「日本鉄道」の設立

それでも渋沢は諦めなかった。1881年(明治14年)に日本最初の民営鉄道会社、「日本鉄道会社」を設立した。日本鉄道は北関東、東北、新潟などの主要都市を結ぶ鉄道建設に精力的に取り組んだ。私鉄といえば、東京では東急、西武、小田急、京王、京成など、大阪では、阪急、阪神、近鉄,京阪など都心と郊外を結ぶ電車のイメージが強い。それだけに北関東、東北、新潟など地方に鉄道敷設というと奇異の感を抱く読者も少なくないだろう。

だが当時は、北関東や東北、新潟などの地方の主要都市を結ぶ列車のニーズが高かった。日本鉄道が最初に手掛けた私鉄が1886年(明治19年)の両毛鉄道だった。栃木県の小山駅から群馬県の前橋駅を結んでいる。両毛地区の生糸や桐生の絹織物を輸送する鉄道として開設された。これを皮切りに日光鉄道(開設年1886年、栃木県・宇都宮~日光)、水戸鉄道(1887年、栃木県・水戸~小山)、北越鉄道(1894年、新潟県・直江津~新発田)、岩越鉄道(1894年、福島県・郡山~新潟県・新津)、越後鉄道(1908年、新潟県・柏崎~新潟駅)などが相次ぎ開設された。その後、日光鉄道、水戸鉄道、両毛鉄道は日本鉄道に吸収される。

 渋沢が北関東、東北、新潟などの主要都市を結ぶ民営鉄道の敷設に力を入れたのは、各地域の特産物を集積地に集め、東京などの消費地に運ぶことで、地域経済の発展に貢献できるとの判断があった。もちろん、それに伴って人々の往来も増え、地域社会が活性化する。

民営鉄道会社の設立に当たって、渋沢は直接、会長、社長に就任し、経営の陣頭指揮を執ることはしなかった。設立発起人、理事、取締役、監査役、相談役、株主などそれぞれの会社の事情に応じて責任あるポストを引き受けている。渋沢が頭取を務める第一銀行が新会社の経営相談や融資にも積極的に応じている。渋沢が設立した会社のトップに就任しなかったのは、有為な人材を発掘し、会社の経営を任す、という渋沢の経営哲学に依拠している。日本鉄道を発足させた翌年、1982年、幼なじみで愛妻の千代が病死した。渋沢は42歳になっていた。実業家として脂の乗り切った時期でもある、愛妻への悲しみを断ち切るためにも、渋沢は鉄道事業に邁進する。

△鉄道国有化支持に転換

 時代は大きく動く。1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発した。渋沢66歳。翌年1905年9月、アメリカ合衆国の斡旋の下で、ポーツマス条約を締結し、日露戦争は終結した。日ロ戦争後、日本国内と朝鮮半島、中国大陸とを結ぶ鉄道輸送の重要性が高まった。さらに軽工業から重工業への産業構造の転換を進めるための物資輸送の円滑化などのため、国有鉄道の強化、拡充が求められるようになってきた。

地域社会発展のため、鉄道民営化が必要と主張してきた渋沢だが、国有化を求める時代の空気を察し、国有化支持に転換した。渋沢独特の時代感覚であり、必要とあれば、持論を撤回し反対の意見を受け入れる柔軟性も持ち合わせていた。

1906年(明治39年)、鉄道民営会社(私鉄)を国が買収し、国有化するための鉄道国有化法が交付された。17社の私鉄が国有化された。国鉄国有化法案の策定過程では、ほかに15社の私鉄買収を含め32社案が有力だった。しかし買収資金不足のため、交付の段階では17社の買収に止まった。だがその後15社も相次ぎ買収され、結局32社が国有化された。渋沢が設立した鉄道もすべて国有化された。日本最初の民営鉄道会社、日本鉄道の名前もその時点で消滅し、歴史にその名前を遺すだけになった。

だが、渋沢が手掛けた民営鉄道の多くは名称が変わったものの現在、東日本旅客鉄道(JR東日本)の一部として存続し、その役割を引き継いでいる。

2023年5月13日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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