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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

17回 日銀など官の要職断り続け

話は少し遡るが、渋沢が実業人として長く拠点としてきた国立第一銀行創設に至る経緯について触れておこう。渋沢は懇意にしている財閥の三井組、小野組に働きかけ、国立銀行条例に基づく日本最初の近代的銀行、国立第一銀行を創設した。国立銀行条例公布の翌年、1873年(明治6年)のことである。

新銀行は東京市日本橋区兜町に設置された。資本金250万円のうち、三井組、小野組がそれぞれ100万円ずつ出資した。両組からそれぞれ頭取を出し、その上に経営の最高責任者として総監役が置かれた。総監役は大蔵省で国立銀行条例の立案に当たった渋沢が就任した。官僚のまま総監役に就任できないため、渋沢は同じ年、大蔵省を辞し、総監役に就任したのである。その当時、渋沢は陸海軍の軍備増強のため財政支出拡大を求める大蔵卿、大久保利通に対し均衡財政堅持の立場から反対していた。それが受け入れられず、辞任の腹を決めたとされる。官支配の常識を打ち破るため、あえて民間でビジネスの仕事をしたいと考えていた渋沢には渡りに船だった。第一銀行の発足が背中を押てくれた。

本店における創立総会は73年6月だったが、早くも翌月の8月1日から営業を開始した。本店のほか大阪、神戸の3支店も開設した。翌年の74年には京都支店もできた。だが必ずしも順風満帆というわけにはいかなかった。この年、小野組が倒産し、第一銀行は減資を余儀なくされる苦境に追い込まれた。危機打開のため、翌75年(明治8年)、渋沢は頭取に就任し、直接陣頭指揮をした。渋沢の下で、第一銀行は一般業務のほかに政府委託による官金出納事務を一手に引き受け、苦境から抜け出た。以後、1916年(大正5年)に頭取を辞めるまで約40年間、第一銀行を足場に経済界を代表するトップの一人として活躍する。

前回ふれたが、76年(明治9年)に国立銀行条例の改正が行われ、不換紙幣の発行、金禄公債を原資とすることも認められた。条例改正を機に、横浜に第二国立銀行、東京に第三国立銀行、新潟に第四国立銀行、大阪に第5国立銀行など設立の順番を示すナンバー銀行が次々と設立される。金禄公債を持ち寄り、元武士グループが銀行設立に乗り出すケースもあった。1879年(明治12年)までに全国に153の国立銀行が設立された。

(注)金禄公債とは明治政府が公家、領主、武士などに交付した公債のこと。公債の利率は、5分、6分、7分、1割と細かく定められ、5年据え置き、6年目から償還をはじめる。金禄公債と引き換えに家禄支給は廃止された。

 

1878年(明治11年)3月、政府は殖産奨励の資金調達のため一般国民を対象に総額1250万円の起業公債の発行を決め募集を開始した。起業公債証書の発行、販売などの事務取扱は第一銀行と三井銀行に委ねられた。証書額面は100円、発行価格は80円、利子6分の魅力的内容だったため、発売3カ月ほどで完売した。政府はこれを築港、道路、鉱山鉄道などの開発、整備に振り向けた。起業公債は国民を対象にした最初の公債だったが、第一銀行にとっては発展の起爆剤になった。この機に全国に支店網を築く。数年のうちに、盛岡支店、秋田支店、新潟支店、四日市支店、宇都宮支店、金沢支店などが設立された。日本に限らず、韓国の仁川支店、釜山支店、中国の上海、香港には駐在員事務所を設けた。

日本銀行創設、割引委員就任

明治維新以降、政府は資金調達を不換紙幣の発行で賄っていたが、1877年(明治10年)の西南戦争の勃発により、大量の不換政府紙幣、不換国立銀行紙幣が発行された。この結果激しいインフレが発生した。たとえば、西南戦争勃発前の76年の現金通貨残高は約1億2400万円、戦争終結後の78年には1億8900万円と約1.5倍に増加した。当然のことだが、物価指数も1.5倍から2倍に跳ね上がった。生活必需品の米価も1.5倍へ上昇した。

インフレ対策に当たったのが新しく大蔵卿に就任した松方正義だった。松方は不換紙幣を回収し焼却した。さらに物価安定などの目的で、金融政策を一手に掌握する中央銀行、日本銀行(日銀)が1882年(明治15年)6月に創設された。日銀開設の翌年、国立銀行条例の改正、さらにその翌年の84年には兌換銀行券条例が制定され、紙幣の発行は日銀のみが行うことになった。これにより第一銀行はじめ民間銀行は普通銀行に転換することになった。新しく創設された日銀はインフレ対策として、紙幣の発行を厳しく抑制したため、インフレは急速に終息した。だが今度は引き締め政策の強化により、「松方デフレ」といわれる深刻な不況を招いてしまった。

日銀創立後、渋沢は松方正義の要請により、割引手形審査のための割引委員に就任している。割引手形の利子決定は日銀の重要な金融政策の一つである。割引委員を引き受けた渋沢だが、大蔵大臣や日銀総裁といった政府の主要ポストへの就任だけは断り続けた。

たとえば、渋沢の「青淵回顧録」にこんなくだりがある。1902年(明治35年)、井上薫に伊藤博文、山形有朋から組閣の内意が伝えられた。井上は渋沢に大蔵大臣就任を要請した。井上は伊藤博文に対し、「渋沢が大蔵大臣を引き受けてくれぬなら内閣を組織することは御免被る」と伝えた。このため伊藤が直々に渋沢を説得したが、渋沢は断り続けた。

こんなケースもあった。1913年(大正2年)、日本銀行7代総裁を務めていた高橋是清が大蔵大臣に就任することになった。高橋は渋沢に後任の日銀総裁への就任を要請した。高橋の再三の要請にも拘わらず、渋沢は断った。

渋沢の頑なと思われる「政府要職就任拒否」の理由はどこにあるのだろうか。

渋沢が大蔵省を辞任したのは、単に大久保利通が嫌いだったからではない。官尊民卑で地位の低かった民間のレベルアップを図ることが、将来の日本の経済の発展に欠かせない、そのために自分が捨て石になっても構わない、そんな強い決意で大蔵省をやめた。それから約40年にわたり、第一銀行を足場に、銀行、企業の発展に尽くしてきた。この長年の志を今更変えられない。渋沢はこんな気持ちを高橋に伝えた。

「民間に骨を埋める」。渋沢の、覚悟、心意気が伝わってくる。

第一銀行は戦中戦後、合併、解体、再合併などの試練を乗り越え、現在、3メガバンクの一角を占めるみずほ銀行として羽ばたいている。

2023年5月10日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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