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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

16回 パリ滞在通じ金融制度の必要性痛感、国立銀行条例制定に尽力

渋沢が新創設ないし直接運営に携わった約500社をつぶさに観察すると、経済活動に欠かせない金融機関、生産や日常生活に必要な電気やガスなどのエネルギー供給企業、人や物資の輸送に欠かせない鉄道など経済活動を支えるインフラ企業の新創設、運営に並々ならぬ意欲で取り組んだことが分かる。

△パリ駐在時代、フランス公債や鉄道株の購入で500両稼ぐ

渋沢が経済活動を円滑に行うために最も重視したのが金融制度の確立だった。経済活動に必要な紙幣の流通、企業の資金調達などが一定のルール、原則の下で実施されれば、経済活動は活発になり、全体の経済も発展する。そのためにはしっかりした金融制度の確立、金融機関の設立が急務だと渋沢は考えた。第一国立銀行の創設には渋沢のそんな願いが込められている。

渋沢が将軍、徳川慶喜の代理としてパリ万博博覧会に行くことになった弟の昭武(あきたけ)の使節団の一員としてパリに同行したことは本連載でも紹介した。渋沢は会計・財務に優れていたことから、使節団一行の宿舎の手配、視察旅行計画、さらに幕府派遣留学生の生活費など財務、庶務係を一手に引き受けた。その関係で、銀行の基本的な役割を誰よりも理解していた。出資者から資金を集め、一定の貸し出し金利で様々な企業に資金を貸し出す。それが銀行の役割だ。

資金を借りた企業はその資金を新たな事業に投資し、借入金利を上回る利益をあげ、銀行に借入金を返済する。企業業績が拡大すれば、さらに銀行から資金を借り、投資に振り向け拡大再生産に乗り出す。銀行と企業のお金をめぐる貸借関係が順調に拡大し好循環で回り出せば、全体の経済活動は活発になる。国や企業が公債や社債などを発行する場合も、発行額、返還期間、表面利率、さらに販売方法など細かな金融商品の設計が必要になる。それも銀行の仕事である。

新しもの好きで、すぐ実行したくなる渋沢は、パリ駐在中約2万両でフランスの公債と鉄道会社の株式を購入した。昭武の留学費や使節団一行の生活費などを賄うため、知人のフランス人から勧められたものだが、明治維新になり急遽帰国することになり売却した。わずかな期間だったにも拘わらず500~600両近く儲けたという。

△静岡商法会所を設立、頭取へ

帰国後、渋沢は主君だった徳川慶喜の居城、静岡藩に出向いた。1868年(明治元年)末だった。

紆余曲折を経て、渋沢は静岡藩の財政立て直しのため、翌年の69年(明治2年)、自らのアイデアで静岡商法会所を設立し、頭取に就任した。銀行と商業の折衷事業をするための組織だ。

当時、明治政府は約5000万両の紙幣を発行し、軍事費などの経費を賄おうとしたが、紙幣の信用がなくほとんど流通しなかった。そこで政府は諸藩の石高に応じ、新紙幣を貸し付ける「石高拝借金」制度を導入した。年利3分の利子で13年償還の貸付制度である。静岡藩には約50万両が貸し付けられた。渋沢はこの資金を使い、商品抵当の貸付金、定期当座の預り金などの銀行業務、さらに農業奨励のため京阪地方から米穀、肥料などを購入した。米穀は値段が上がれば売却し利益を出した。肥料は駿河領内の村々に貸し出し、応分の利益を得るなどの商業活動にも精を出した。これにより、静岡藩の財政は短期間に改善に向かった。

△大蔵官僚として国立銀行条例の計画、制定に挑む

その年の秋、政府から突然呼び出しがあり、金融実務に強い渋沢に大蔵省勤務が命じられた。当時大蔵省のボスだった大隈重信の強い引きがあった。今でいえば、局長クラスで迎え入れられたのである。渋沢は大蔵省が取り組むべき法律や制度の新設、改正などを討議、検討する場として、改正掛の設置を提案し受け入れられた。改正掛は、度量衡の改正や廃藩置県、地租改正、国立銀行条例、郵便制度の創設、富岡製紙場の建設、貨幣制度の改正、鉄道の敷設、諸官庁の建設などの企画や提案、調査などに取り組んだ。

この中で、渋沢が中心になって調査・立案に取り組んだ一つが国立銀行条例だった。72年(明治5年)8月に法律として成立した。

国立銀行条例の最大の目的は、不換紙幣の整理と紙幣の円滑な流通を目指し、一定の条件の下で、国ではなく、民間銀行に兌換紙幣の発行を認める法律だ。兌換紙幣とは金貨と交換できる紙幣だ。当時、政府の金不足はかなり深刻で民間に肩代わりをさせる意図もあった。

国立銀行条例が交付される前年の71年(明治4年)、政府は新しい貨幣制度確立のため、新貨条例を公布した。江戸時代の複雑な貨幣制度を整理して、貨幣単位を円、補助単位を銭、厘とした。新貨条例の柱の一つは100円札を金150グラムの金と交換できることを定めたことだ。金本位制の導入だ。

条例は国立銀行の資本金を5万円以上とし、一定の金額を政府に納付し公債を購入、この公債を担保に同額の兌換紙幣を発効できる。資本金の10分の4を正貨(金貨)で払い込み、兌換のための準備金にする規定も定められた。法律名にある「国立銀行」という名称だが、国営銀行という意味ではなく、国立銀行条例に基づいて開設された銀行という意味で、民間資本で運営される民間銀行である。

 ところが、銀行条例に従って、実際に業務に携わってみると、色々不便があることが分かった。そこで渋沢は実際の経験に基づき、銀行条例の短所、欠点を詳細に洗い出し、大蔵省に条例改正を建議した。同省もこれを受け入れ、明治9年(1876年)、国立銀行条例が改正された。改正の柱は金本位制の修正だった。実際に銀行業務に携わってみると、金準備が極端に不足していた。このため、日常取引では銀貨が主に使われていた。明治9年の改正ではこの矛盾を解決するため、金銀福本位制が導入された。「この改正が適切だったようで、それ以降、国立銀行、並びに私立銀行の創設が相次ぎ、その数は全国で百十数にのぼった」と渋沢は述べている。

 △初の銀行団体、択善会の設立

渋沢は銀行が多数誕生したため、条例改正の翌年、明治10年(1877年)、同業者の親睦と営業の得失などを研究する組織体として、「択善会」を発足させた。択善会は渋沢の第一国立銀行内にその事務所を設けた。択善会の意味について、渋沢は論語の「択(えら)んで善に居(お)らずんば安(いずく)んぞ知るを得ん」という語句から引用したと述べている。

世のため人のためになる善い活動をするための組織にしたいという渋沢の気持ちが込められている。

択善会の例会は毎月1回第一国立銀行で開いた。銀行紙幣交換方法,不換紙幣の整理、海外の金融事情の翻訳・公開など当時としては画期的な勉強会だった。択善会は紆余曲折を経て、東京在住の銀行だけではなく、大阪、九州、四国など全国の銀行が加わり大組織になったため、明治15年(1882年)に択善会は解散、新たに東京銀行集会所を設立、渋沢は択善会に続き、委員長を務めている。

話は前後するが、渋沢は東京銀行集会所を足場に明治12年(1879年)、大阪に「大阪手形交換所」を設立した。企業同士の取引で代金を後払いする際に使われる約束手形を取り扱う場である。渋沢は兼ねてより、製品取引の際、現金決済の非効率を指摘し、手形取引の利便性を強調してきた。ちなみに大阪手形交換所は2022年11月に143年の歴史に幕を閉じ、「電子交換所」として生まれ変わった。

手形交換所の設立と並行し、企業の財務内容などをチェックする信用調査機関として、「東京興信所」、「商業興信所」(大阪)も日銀の補助金、助成金などの資金援助を受け発足させている。

ちなみに択善会は東京銀行集会所などを経て、今日の全国銀行協会に発展的に引き継がれている。

(注)通貨制度は明治5年(1872年)の銀行条例で金本位制、明治9年(1876年)の条例改正で金銀福本位制、明治18年(1885年)銀本位性、さらに日清戦争で得た巨額な賠償金、2億両(約3億円)の一部を金準備に当て、明治30年(1987年)、金本位制復帰、と変遷を重ねた。

2023年4月29日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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