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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

2部 経済編 渋沢創設の企業が戦後日本の経済発展を支える

前回まで渋沢の生い立ち、人となり、経営哲学、さらに社会事業家としての取り組みなどを年代を追いながら見てきた。ここまでの連載を1部としたい。今日から始まる2部は経済編、渋沢が創設にかかわってきた約500の企業の中からいくつかの企業をピックアップし、紹介することから始めたい。

戦後日本の奇跡といわれた経済発展の裏には、戦前に渋沢が創設、運営に関わった多くの企業群があった。この企業群は「渋沢イズム」(渋沢流経営システム、注参照)によって運営され、戦前の日本経済の近代化に大きく貢献した。渋沢が創設・運営に携わった企業群は様々な経験を積み、戦後日本の急速な経済発展を支えていく。この点に光を当てれば、戦前の渋沢企業群は戦後日本の経済発展を飛躍させる助走期間としての役割を担う存在だったと位置付けることができるだろう。別の言い方をすれば、戦前、もし渋沢企業群が存在しなければ、戦後の急速な経済発展は実現しなかったということになる。米国型経営システムとは全く異なる経営理念、哲学に基づく日本型経営システムがフル稼働して、日本は世界の奇跡と言われた高度成長を実現させた。その日本型経営システムの原型、ひな型になったのが渋沢イズムにほかならならなかった。

渋沢は闇雲に企業を立ち上げたわけではない。創設に携わった企業が将来の日本の発展にどのように貢献できるかを十分考慮した上でスタートさせている。そこで、渋沢はどのような理念、考え方から多くの企業を誕生させたのかを具体的に検討しておきたい。それが戦後日本の急速な経済発展を理解するためのカギになると筆者は考える。

(注)渋沢イズム(渋沢流経営システム)

企業性善説、道徳と経済の両立、利他主義、労使協調、公正競争、適正利潤の追求などを一体化させた渋沢の経営理念・哲学に基づく経営システムのこと。

 

《》時代が求める先端企業の創設

△王子製紙

約500社創設の第1号、最初の会社である。三井組などの豪商に呼びかけ設立した。渋沢が大蔵省を辞任したのが1873年(明治6年)。その年に早くも設立している。パリ滞在中、渋沢は西洋の経済や行政、政治の仕組み、郵便などの情報伝達、さらに様々な個別企業の事業をつぶさに観察している。その見聞の一つに新聞による情報伝達の速さがある。数日前に起こったニュースの詳細が今日の新聞に載っている。それが多くの人に読まれ、社会や政治、経済を変えていく。情報伝達に時間がかかる日本と比べ、その速さに驚愕したと述べている。なぜそれが可能になったのか。大量の紙(新聞用紙)を生産できる製紙会社が存在したからだ。経済活動の交換手段として欠かせない紙幣も紙で作られている。日本にも昔から和紙があるが量産ができない。洋紙を造る製紙会社を日本にも設立しよう、こんな渋沢の思いが王子製紙で実現した。

3年後の76年には王子製紙の隣に紙幣の紙をつくる大蔵省抄紙局(現国立印刷局王子工場)が操業を開始した。翌年、国産初の1円紙幣がここで印刷され市場に流通した。以後、21世紀に入る直前まで、すべての紙幣の紙づくりを担ってきた。新聞社にも新聞用紙を提供した。情報提供機関として日本に多くの新聞社が設立され、経済活動や政治の民主化、さらに教育、文化、娯楽などの普及に貢献した。王子製紙を筆頭にそれに続く新規の製紙会社が続々と誕生し、潤沢に洋紙を提供したお陰である。その王子製紙も後で述べる戦後の財閥解体で3社に分割された。その1つ十条製紙(現日本製紙)は創業時の工場の跡地を引き継ぎ今日に至っている。

△日本煉瓦製造会社

渋沢の起業でもう一つ、印象深いのが1887年(明治20年)に自ら発起人になり創設した日本煉瓦製造会社である。同社の工場は渋沢の故郷、埼玉県深谷市に建設された。

明治政府は1886年(明治19年)、洋風建築を官公庁に取り入れるため臨時建築局を設置した。政府主導で官営の煉瓦工場を建設する計画だったが、資金面から断念し、民間の工場で製造されたものを買い上げることに方針を転換した。渋沢に相談があった。渋沢も欧州滞在中、煉瓦を使った様々な建造物の美しさに感銘を受けた経験がある。そこで、政府の相談を受け入れ、煉瓦工場の建設に踏み切った。

日本煉瓦製造会社の最大の特徴は外国人技師を招き、日本初の機械式レンガ工場を造ったことだ。工場の建設に招聘された外国人技術者は二人のドイツ人だった。ナスチェンテス・チーゼは粘土採掘地の調査、煉瓦製造、エルンスト・エーメーは機器の買入と設置を指導した。当時の日本では工場新設に当たって、欧米から技術者を招き、最先端の工場建設に取り組む事例が多く見られたが、渋沢の煉瓦工場はお抱え外国人による工場建設の代表的事例といえるだろう。これをきっかけに、煉瓦工場が相次ぎ設立され、煉瓦を使った官公庁、学校、ホテル、個人邸宅など洋風建築が全国各地に瞬く間に広がった。

1914年(大正3年)、東京駅の丸の内駅舎が竣工した。鉄骨赤煉瓦造りの建築物だ。使用された煉瓦は渋沢が設立した日本煉瓦製造が造ったものだ。

日本煉瓦製造は2006年、今の太平洋セメントの子会社となり姿を消したが、煉瓦造りの洋風建築を支えた最初の企業として歴史にその名を残している。

ちなみに来年4月発行予定の新1万円札の裏側には煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎がプリントされている。

 

△清水建設

ゼネコン大手、清水建設との関係も渋沢の人柄を知るうえで興味深い。清水建設(当時清水屋)は1804年、越中富山の大工、清水喜助が神田鍛冶町で開業した。1871年(明治4年)、二代喜助が第一国立銀行(当時三井組ハウス)の建築を請け負った。日本にまだ西洋建築がほとんどない時代、二代喜助が外国人技師の指導を受けず、独力で研究を重ね、堂々とした洋館を完成させた。後に第一銀行頭取になる渋沢は二代喜助の心意気と技量を高く評価、両者の信頼感は深まった。清水建設との関係がより深くなるのは三代満之助が34歳の若さで逝去(1887年=明治10年)したことだ。三代満之助は死を前に手帳に「あとのことは渋沢さんに頼め」と書き残していた。8歳の長男が四代満之助を襲名した際に請われて同社の相談役に就任した。多忙な時間をやりくりして決算書に目を通し例会に出席し、社員たちに訓話をした。自らの屋敷の建設を発注したほか、第一銀行などの銀行建設、商店事務所建設、学校建築などかなりの数の建設を清水建設に紹介し、経営を助けた。五代目の清水釘吉(ていきち、1867~1948年)は「行き詰まりかけていた清水組は子爵のお陰で再建するに至ったのである」と書き残し、渋沢に感謝している。

清水建設では道理に適った企業活動によって社会に貢献し、結果として適正な利潤を得て社業を発展させるという「論語と算盤」の教えを社是として今日まで引き継いでいる。

同社は2012年5月に東京・京橋に新本社ビルを竣工させた。地下3階、地上22階、延べ床面積約5万平方面積のオフィスビルだ。最大の特徴はその当時利用できる最先端の技術を総動員した環境配慮型のビルだ。最終目標をCO2排出ゼロ(ゼロカーボン)に設定し、

時間をかけて実現する。竣工時の12年はカーボンハーフ(CO2排出半減)ビルからスタートした。パソコンの節電制御システムの開発、輻射空調の採用、オフィス内の照明はすべてLED採用、窓辺の太陽光パネルは発電効率の高い多結晶型、ビル側面などには透明性の薄膜型パネルを約2000㎡設置した。この結果、12年の新本社のCO2排出量は通常のビルと比べ62%減を達成した。将来のカーボンゼロ達成を目指した活動は現在も続いている。

渋沢が目指す世のため、人のためになる事業の展開は間違いなく継承されている。

2023年4月22日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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