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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

14回 日露戦後の日本移民排斥運動に挑む

渋沢が晩年に特に力を入れたのが民間をベースとした対米外交だった。幕末から明治維新にかけて日本とアメリカとの外交関係は比較的良好だった。江戸末期の1853年6月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の蒸気船を率いて神奈川県浦賀沖に現れた。鎖国を続けていた日本に対し、開国を求めての来航だった。「黒船の来襲」で日本国中が大騒ぎになった。これを機に日本の開国は一気に進んだ。江戸末期の1860年1月、勝海舟、福沢諭吉など総勢約90名が咸臨丸で太平洋を横断、出航37日目の2月22日、サンフランシスコに入港。サンフランシスコ市民から大歓迎を受けた。明治に入ると、サンフランシスコ、ロスアンジェルスなどアメリカ西海岸へ日本人移民が急速に増えた。当初は勤勉でよく働く日本人移民の評判は概して良かった。

この良好な関係が崩れ、日本人移民排斥の最初の動きが起ったのは「明治39年から40年にかけての学童問題だった」という。明治39年は西暦1906年。日露戦争で日本がロシアに勝った(1905年)年の翌年だ。この年、サンフランシスコで、公立学校へ日本人学童の入学が拒否された。他のアジア人と同じ学校に通学すべしという市条例が制定されたのである。これに対し現地の日本人だけではなく、日本国内でも激しい反発が起こりアメリカに対する非難が強まった。日米関係の悪化を気遣ったルーズベルト大統領が間に立ち市当局を説得し、収束をみた。この事件はアメリカ社会内部に蓄積されてきた日本人移民に対する反感や差別が顕在化したものだった。

▽日露戦争に勝って日本人移民の態度が尊大になった

渋沢は米国の潜在的な成長力をいち早く見抜き、良好な日米関係の維持がアジア・太平洋地域の安定した発展に不可欠だと考えてきた。それだけに日本人排斥運動はショックであり、何とか大事に至らぬうちに沈静化させなければならないと思った。

「青淵回顧録」の中で、「日露戦争で日本がロシアに勝ってから、日本人は肩で風を切って歩くようになった。それがアメリカ人の反発を招いたのではないか」と分析している。渋沢によると、「日本の移民は他の国からの移民と少し異なっていて出稼ぎと考えている。それで金が貯まると日本へ帰ってしまうので米国を愛する国民ではないと思われている。「そんな移民なら米国にいる必要はないと思われても仕方がないのではないか」とも述べている。

さらにアメリカには農業労働者としてヨーロッパ、アフリカ、インドなどから多数の移民が来ているが、勤勉で低賃金でもよく働く日本人に仕事を奪われ、反感を持つ者も多い。

日米の生活習慣の違いも大きな障害となっており、アメリカ人の嫌うことを平気でやってしまうなども反日意識の背景にあるようだと指摘し、渋沢は次のような事例をあげている。

「例えば、尻を捲(まく)る。立小便をする。公徳心に欠ける、子供が泣いていても捨てておく。日本人は勉強だと思っても米国人からすると野蛮だとされる。こんなことが数重なっているところを利用して、一部の政治家が反日感情を煽動する。その結果、「『日本人憎し』と思うアメリカ人が多数いるような誤解を与えている」と渋沢は顔を曇らせる。

だが、このような日本人差別は道理に合わないと渋沢は考える。日米の生活習慣の違いが問題なら「郷に入れば郷に従え」で日本人側が直せばよい。英語が苦手な日本人移民も日本人だけで固まらず、現地のアメリカ人と積極的に交流すれば日本人の良さが分かってもらえるはずだ。日本人排斥運動は明らかに誤解に基づくものだ。問題が深刻化する前に原因の芽を摘み取っておかなければならない。そのために何をすべきか。国家ベースで外交による解決ができればそれが理想だ。だが日本人排斥運動は、米国社会の日常生活の中から生まれてきた誤解だけに、民間ベースの話し合いによる解決策が有効ではないかと渋沢は思い付く。その頃米本土には日本人移民が約12万人、そのうち約7万人がカルフォルニア州で働いており、それなりの存在感があったのだろう。

〈〉米実業団を日本に招待、民間外交の始まり

渋沢は明治11年(1878年)、実業人の集まりである東京商業会議所の会頭に就任した。明治39(1906年)年まで28年間、会頭をしていた。学童問題が起こったのは会頭辞任直後の事だった。当時、政府は桂太郎首相、小村寿太郎外相の時代だった。二人と昵懇だった渋沢は、二人の支援を受けて、カルフォルニア州および太平洋沿岸の8大商業会議所に渋沢名で手紙を出し「一度、日本に遊びに来るように」と伝えた。これに呼応して、1908年(明治41年)、アメリカ太平洋沿岸実業団が来日した。来日米実業団の接待は渋沢が陣頭指揮した。これが日本の「民間外交」第一号に当たる。翌年の1909年(明治42年)には逆に米国側から返礼招待があり、渋沢を団長とする渡米実業団約53名がチームを結成して太平洋を渡った。

約3カ月間米国に滞在し各地の実業人や一般市民との対話旅行を続けた。最も力を入れたのが日本人移民に対する誤解解消への取り組みだった。この時、渋沢はウイリアム・タフト大統領とも会談しており、米国での評判は上々だった。民間外交で知己になった米政財界人脈などを通して、渋沢は移民問題に限定せず、様々な日米間の問題を話し合うための常設機関、日米関係委員会(1916年=大正5年)の創設に尽力した。翌年(1917年)には民間中心の日米協会を創設、名誉副会長を引き受けている。渋沢77歳の時である。

だが渋沢の民間外交による努力にもかかわらず、日本人移民に対する反感は沈静化せず逆に強まるばかりで、1924年(大正13年)にはついに排日移民法案(注参照)が米議会両院を通過し成立した。

排日移民法の成立について、渋沢は大いに憤ったが、希望も捨てない。青洲回顧録で次のように述べている。

「米国の上下両院が感情に駆られてか、選挙に利用しようとしてか、ともかく不条理なる排日移民法を可決したのは遺憾千万である。だがこれは全米国民の総意でないことは明らかなので全然失望するにはあたらない。現に米国の新聞の論調からも明らかなように、米国には正義人道の公平なる見地から日本の立場に同情している人々も少なくない。やがてこれらの正しい意見が具体化する時機がくるだろう。私はその日の一日も速やかならんことを切望している」

何事に対しても正義、人道に沿うものであれば、一時的に不利な立場に追い込まれてもやがて修正されるという渋沢の楽観的かつ諦めない人生観が滲みでている。

(注)排日移民法

正式名は1924年移民法。日本人移民を対象にした名称ではなく、東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、アジア出身者の移民規制を目的とした法律。特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項がある。当時、アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになった。このため、日本では排日移民法という呼称で扱われるようになった。

2023年4月16日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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