13回 養育院の育成に半生かける
〈〉社会政策としての慈善事業に挑戦
渋沢は約500の企業の創設に携わった実業人だが、身分制度、男尊女卑などの悪しき習慣、制度の撤廃など社会生活の進歩の妨げになっている課題にも強い関心を持って取り組んだ。今回のテーマ、慈善事業への取り組みもその一つだ。
国を豊かにするためには、社会を構成する人々が品位、礼節を保ち生きていけるような社会環境が必要だが、その実現は絵に描いた餅に似ている。理想通りには中々いかない。世の中には豊かな生活ができる少数の恵まれた人、様々な理由で貧しい生活を強いられる人、体が弱く働けない人、災害や貧困、両親の早死などで社会に放り出される孤児など多くの弱者が社会の底辺に沈み、貧者の吹き溜まりになっている。
実業人、渋沢の関心はこのような社会の底辺に沈む人たちの救済にも注がれ、並々ならぬ決意と努力でその解決に取り組んだ。
その一つが養育院である。渋沢著の「青淵回顧録」によると、養育院創設のいきさつをあらかた次のように述べている。「明治初年に東京遷都が実行されると、幕府瓦解の影響で江戸市中は大混乱に陥った。働くに職なく、食うに糧なき窮民が一時に激増して、飢えて道端に横たわる者が数知れぬという有様で、その惨状は名状すべからざるものがあった」と。東京府もこれを放置しておくことができず、明治5年(1872年)に当時の大久保一翁知事が救済計画を打ち出した。これが養育院の始まりであり、その原資が江戸時代、松平定信が創った貧民救済資金「七分積金」だった。
明治6年、渋沢は大蔵省を辞め、実業界に転進した当時、東京会議所というものがあった。以前、「東京営繕会議所」と称せられていたもので、今の言葉で言えば、社会・福祉インフラ形成財団のような組織だ。道路、橋梁の修理、養育院事務、共同墓地事務、ガス灯および外灯事務、商法講習所事務等を管理経営していた。私は明治7年に営繕会議所の委員に任命されていた」。
東京会議所に名称変更後、渋沢は会頭に選出された。その関係で養育院が創設された時、事務長に任命された。養育院は首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障碍者の保護施設として設立された。1889年(明治22年)に東京府に移管された。渋沢は養育院長に就任し91歳で亡くなるまで約50年間院長を続け、本院のほかに分院、専門施設を開設して事業を拡大した。養育院は当初本郷加賀藩邸跡(現在の東京大学)の空長屋に設置された。その後、上野(現在の東京芸術大学の校地)、神田、本所、大塚と移転を繰り返し、関東大震災後に板橋区にようやく終の棲家を見つけた。官営とはいえいかに養育院が軽く扱われ、存在感が薄かったことが分かる。渋沢が院長をしていなければ潰れてしまったかもしれない存在だった。
「明治15,6年(1882,3年)ごろ東京府の財政難から府会が金を出さぬ事になって、養育院は廃止される運命になった。その時、私は大いにこれを憂えて各方面に奔走し、有志者から義援金を求めなんとか危機を乗り切った」(意訳)と述べている。養育院は戦後、東京都の福祉事業の中核となり、1972年(昭和47年)に、養育院の付属機関として東京都養育院附属病院が設立された。その後、同病院は1986年(昭和61年)に東京都老人医療センターに改名された。
1999年(平成11年)、東京都養育院条例が廃止され、養育院の名称は消滅したが、東京都健康長寿医療センターに名称を変え、東京都の福祉事業に大きな役割を担っている。
渋沢は50年近く養育院院長を務めたが、この間、毎月本院、分院などに通い、入院患者の病室まで出かけ、直接面談し励ますことを心がけた。渋沢の妻や娘も時間を見つけて養育院にでかけ、入居者の世話をした。養育院は渋沢家の日常生活の一部になっていた。
△パリでバザー(慈善市)を知る
渋沢が慈善事業とは何かを知ったのはパリ駐在の時だった。その経緯(いきさつ)を次のように述べている。
「私が維新の前に徳川民部公子(昭武)に随行してパリに留学していた当時の事だが、ある日パリ居住の陸軍将官の夫人の名で書面が参り、『今年の冬はよほど寒いようであるから、パリ市民の貧民を温かくしてやりたいと思う。ついては来る何日に某所へ来てぜひ何か買ってください』という依頼が書いてあった」という。
渋沢は当時、バザー(慈善市)を知らなかったため、フランス人の知人に聞いてみた。
知人は「特殊の紳士方に依頼して義援金をだしてもらい、それを貧民院などに寄付する制度。ただ、直接お金を寄付するのではなく、バザーに出かけ、そこで販売している品物を買ってやる。そのお金が義援金になる」とのことだった。必ずしも、バザーに行かなくてもよいという。そこで、民部公子の対面も考えて、いくらぐらい出せばいいか聞いたところ、普通一般の義援金額は多いので4、5百フラン、少ない方で50フラン、という話だった。その時は、確か100フランばかり寄付した、と記憶している。ところがその後、何か品物を送ってきて、「この品物を買い取ってくださりありがとう」と礼状が添えられていた。
そこで初めて「バザーという事の性質が解り、博愛済衆(はくあいさいしゅう)の趣旨に適って良いことであると感心した。日本に帰ったならば、ぜひともこういうような習慣を作りたいと思った」と述べている。
渋沢は「幸福に富んでいる者が不幸な者を救う」という考え方は、儒教でも仏教でもキリスト教でも奨めている。だが、自分は宗教とは離れ、社会政策として慈善事業をすることが望ましいと考えているので、日本でもバザーのような制度が必要だと述べている。
渋沢によると、当時の日本には慈善に反対の意見がかなり多かったようだ。
「世間のいわゆる不幸な者の中には、不慮の災厄にかかってここに至った者もあるが、また自暴自棄の結果自ら求めて不幸の地位に陥る者も決して少なくない。しかるにこれを社会が救うという事になると、ますます自暴自棄の弊風を助長して、自分は怠けてそれがために貧乏になっても、その時は社会が救ってくれるから心配はいらぬというようになり、各人の勤勉心を阻喪せしめ、社会の発展進歩を妨害することになる。富者が貧者を救うことは立派な論であるが、貧者を甘やかせてしまうので、慈善はよろしくない」(意訳)というのが反対論の大体の意見である。
もっともな意見にも思えるが、自分は違う、と渋沢言う。「小児が井戸に堕ちたのを見ていながら救わぬでもよいものだろうか」と問う。
「養育院は博愛済衆の主義からできたものだが、その本来の使命はそればかりではなく、社会の害悪を未発、または未然に防止するもので、重大な社会政策を意味している」(意訳)と述べている。養育院では①老衰の貧民、⓶行路病者、⓷棄児、窮児の3部門の強化を目指しているが、特に⓷棄児、窮児を収容する感化部を重視している。その理由について、渋沢は「前途に多くの望みのある小児は将来立派な国民になるものであるから、気息奄々たる引取人のない行路病者や老衰者等と同一のところで養うのは好ましくない」と指摘し、感化部の場所を別に用意するなどの配慮をしている。社会事業家としての確かな視座が感じられる。
2023年4月6日記