12回〈〉渋沢と福沢諭吉 身分制度、男女差別への憎悪で一致
渋沢の社会問題への取り組みについて触れておこう。経済を発展させるための手段としてフランス滞在中に知った合本組織(株式会社)がその後の渋沢の人生に大きな影響を与えたことはこの連載の中でも繰り返し指摘してきた。全国各地から有能な人材を集め、同じように資金を集め、株式会社を設立する。株式会社は「道徳と経済の両立」を前提に適正な利益をあげ、会社を大きくする。多くの産業分野で株式会社が生まれ育ち大きく成長することが日本を豊かにする。実業界が国家に貢献する道はこれ以外にないというのが渋沢の信念であり、それは終生変わらなかった。
渋沢はフランスを中心にベルギーやイギリス、イタリアなどを歴訪し実際に株式会社が国を豊かにする姿を目撃した。身分制度のない欧州では実業人の地位が高く、ベルギーを訪問した時には、国王がベルギー産鉄鋼のセールスをしている姿に驚いた。
それに反し、江戸時代の日本は「士農工商」の身分制度でがんじがらめに縛られていた。一番偉いのは武士で、それ以外の農工商はたとえ才能があっても身分の低い者として一人前に扱われなかった。逆に無能でも武士階級に生まれれば威張って過ごせる。
青年時代の渋沢は血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で農業に従事していた。実家は藍の生産、藍玉の製造、販売で利益をあげ、周辺農家が一目置く豪農だった。父親は苗字帯刀を許されていた。血洗島村は武蔵国岡部藩の領地だった。領主からご用達と称して不定期にかつ一方的にお金の提供を強いられる。
渋沢が17歳の時、岡部藩の陣屋(代官所)から呼び出しがあった。父親の代理として3人の仲間と出向いた。平身低頭して待つと、知性も教養もないような代官が現れ、3名に対し、それぞれ金額は異なるが御用金の申し渡しをした。他の2名は責任者当人が出席しており、その場で受け入れた。一方、渋沢に対して「御用金として500両を出せ」と尊大な口調で命じた。渋沢は「父親の代理としてきたので、持ち帰り、父親と相談しい」と述べると、代官は烈火のように憤った。そして「今すぐ返事をせよ」、「貴様はつまらぬ男だ」などと罵倒された。百姓をしている限り、「彼らのような、いわば虫けら同様の知恵も分別もない者に軽蔑される、残念千万なことだ」と渋沢は悔しがっている。
渋沢が身分制度のない社会こそ国を豊かにするための土台だと考えるようになったのは若き日、代官所で経験した屈辱心だった。身分制度がなければ、全国各地から有能な人材を集め、適材適所で活用し、国家の発展に貢献してもらうことができる。身分制度は悪しき習慣で日本の社会から一刻も早く追放しなければならないと渋沢は考えた。
実は封建時代の身分制度が近代日本の発展の障害になっていることを見抜き、批判した学者が福沢諭吉だった。九州・中津藩(現大分県中津市)の下級武士出身の福沢は、厳しい身分制度の下で、身分が低ければ有能な人物でも出世できず、逆に無能な人物でも家柄が高ければ厚遇されるがんじがらめの身分制度に悲憤慷慨している。福沢は「福翁自伝」の中で、「門閥制度は親の敵(かたき)」と述べている。門閥制度とは、生まれや家柄によって、身分が決まりどんなに努力してもそこから抜け出せない制度のことだ。
福沢はさらに主著「学問のすすめ」の冒頭で、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と述べている。「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤(つと)めて物事を良く知る者は、貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」と指摘している。渋沢の考え方とぴったり重なる。
身分制度を憎悪する渋沢と福沢の出会いは渋沢が大蔵省時代(1869年)に福沢邸を訪ねた時が最初である。渋沢が租税、貨幣、土地制度などの計量基準の相談に訪れたところ、福沢は渋沢の相談をそっちのけにして、出版間もない「西洋事情」を取り出して、一方的にその内容を教え込もうとする姿勢に終始した。渋沢はこの時、変わった人物だとネガテブな印象を抱いたという。
二人の関係はそれ以来空白の時代が続いたが、25年後の1894年(明治27年)、日清戦争を機に両者は再会し、親交が深まった。渋沢と福沢は「出征兵士の家族の支援,戦病死者の慰問・弔問計画」を立案した。福沢は自ら創刊した「時事新報」で文筆キャンペーン、渋沢は企業に働きかけ寄付金を集めた。役割分担で成果を上げた二人の信頼関係は深まった。渋沢は、「国の発展は富の力に依存する」、「実業に生かせる学問をせよ」などの福沢の発言を取り上げ、説得力あると高く評価した。福沢も60歳の時に刊行した「実業論」の中で、「(もし渋沢について)、明治政府の一員と実業界の第一人者として、どちらが栄誉かと尋ねるものがいたら、私は後者であると即答する」述べている。福沢もまた実業人としての渋沢を高く評価していることがわかる。
△男女差別の撤回でも意気投合
身分制度と関連して、渋沢は男女差別の弊害についても言及している。「論語と算盤」の9章は「教育と情誼」である。その中で、江戸時代の女子教育の教科書とされてきた貝原益軒の「女大学」に言及し、「智の方は一切閑却され、消極的に自己を慎むことばかり重きをおいたものだ」と批判している。その上で、「女性は封建時代のように無教養で(男性より低い)馬鹿にしたような扱いをしてよいのか。それともふさわしい教育を受け、自分を磨き、家庭をまとめる人の道を教えるべきか」と自問し、「もちろん、女性だからといって教育をおろそかにしてはならない」と自答している。そして「女性も社会の一員、社会の構成員である。だからこそ、(封建時代のように)女性に対する侮辱したような態度を改め、男性と同じ国民としての才能や知恵、道徳を与え、ともに助け合っていかなければならない。そうなれば、5千万人の国民のうち、2千500万人しか役に立たなかったのが、さらに2千500万人を活用できるではないか。これからは大いに女性教育を広げていかなければならない」と持論を展開する。
有言実行の渋沢はこのような考え方から女性教育に力を入れ、日本女子教育奨励会、日本女子大学、東京女学館、日本女子高等商業学校(嘉悦大学)などの創設に参加、支援、協力をしている。
福沢も「学問のすすめ」の中で、「女大学」を厳しく批判している。女大学に「婦人は3界に家無し」と書いてある。幼き時に父母に従うのはもっともなことだが、嫁ぎ先の亭主が「酒を飲み、女郎に耽り、妻をののしり、子を叱り、放蕩淫乱を尽くすとも、婦人はこれに従わなければならないのか」と憤っている。福沢は女性の解放、近代的家庭道徳の樹立を前提とした夫婦中心の新しい家庭像を提唱している。この点でも渋沢と重なっている。
渋沢と福沢が働き盛りの時代にもっと親交を深めていれば、さらに何か「サプライズ」が起こったのではないかと思うとちょっと残念な気持ちがする。
2023年3月28日記