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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義

6回〈〉西南戦争で大儲け

三菱の政商ぶりの極みは西南戦争だった。明治10年(1877年)西南戦争が勃発した。政府の徴用に応じ、三菱は社船38隻を軍事輸送に振り向け、政府軍7万人の他弾薬、食糧などの輸送で全面的に政府を支えた。戦費総額4156万円のうち、三菱の運航収入445万円、経費を差し引き、112万円の利益を稼ぎ出したと言われる。112万円が現在の価格でいくらになるかは諸説があるが、明治初めの米価で比較すると、1円は今の約5000円程度と推定される。仮に5000円とすると、56億円になる。これに対し、現在価格で400億円近く儲けたのではないか、との説もあるが定かではない。いずれにしても、三菱は西南戦争で莫大な利益を手にした。まさに焼け太りだった。この資金を基に岩崎は、造船、鉱山、貿易、金融、鉄道などの産業分野に乗り出し、三菱財閥の基礎を築く。それだけではない。西南戦争への貢献が評価され勲四等に叙され、旭日小綬章が付与された。この世の春、人生のピークに上り詰めたかに見えた。

〈〉大久保暗殺、大隈政変失脚で強力な後ろ盾失う

海運業は三菱の独断場になった。競争に敗れた外国汽船は日本を去り、対抗する海運会社が誕生すると、価格ダンピングや相手企業を誹謗する様々な偽情報、今の言葉で言えば、フェイクニュースを大量に流し破綻させるなどの禁じ手も意に介さなかった。

だが良いことが永遠に続くわけではない。膨れ上がった風船は破裂する。好事魔多し。その時が迫っていた。

明治11年(1875年)大久保利通が暗殺された。14年(1881年)には北海道開拓使官有物払い下げ事件で大隈重信が失脚した。岩崎は強力な支援者を相次いで失った。

一方、海運を独占し、政商として膨張を続ける三菱に対し、政府部内だけではなく世論の批判も厳しくなった。農商務卿の西郷従道は「三菱の暴富は国賊なり」と非難した。負けん気の岩崎は「三菱を国賊だと言うならば、三菱の船をすべて焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫か」と反論した。

大隈失脚の翌年、明治15年(1882年)7月、渋沢栄一、三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎ら反三菱グループが資金を出し合い600万円という巨額の資本金をもとに共同運輸会社を設立し、三菱に対抗した。資本金のうち260万円は政府が拠出した。このことからも明白なように、共同運輸は政府の肝いりでできたことが分かる。設立に当たって、会社に付与された船舶は海軍の付属とし、戦時や有事の際は海軍卿の命令で海軍商船隊に転ずる規定が盛り込まれていた。

共同運輸は三菱の海運独占支配に風穴を開けたいとする政府の思惑が見え見えだった。その点からいえば共同運輸会社は今流の表現でいえば国策民営会社の性格が強かった。

この時期の様子を渋沢は自伝、「雨夜かたり」の中で次のように回想している。

「三菱は旭日昇天の勢いを以てその海運業が発展した。経済界の人々は三菱会社の余りに政府の特典を受けて専横になるということを羨みかつ憤って、ついにこれに反対す共同運輸会社というものが出来た。私はその共同運輸会社の賛成者であったから、換言すれば、三菱の反対者であった。海運業はさなきだに(ただでさえの意)競争にながれるのを、一方の専横を防御しようということで組立ったから一方も利かぬ気で力をいれるので、この両会社はしきりに競争した。・・・今日の政友会と憲政党との政争ぐらいではなかった」

渋沢の指摘するように三菱と共同運輸との激烈な争いは2年間も続き、運賃は競争開始前の10分の1にまで引き下げられた。両会社の財務内容は急速に悪化し、共倒れの危機にまで追い込まれた。その最中、競争の陣頭指揮を執っていた岩崎が明治18年(1885年)2月、突然急死した。胃がんだった。

弥太郎の後を継いだのが、16歳年下の弟、弥之助(1851~1908年)だった。弥太郎は弟とはいえ年齢が離れた弥之助を自分の息子にように扱い、後継者として育てるため、1872年(明治5年)に米国に留学させ、経営学などを勉強させた。73年に2人の父、弥次郎が急逝すると、弥太郎の懇願もあり、弥之助は1年で留学を中断し帰国、三菱商会に入社。翌74年の秋、後藤象二郎の長女、早苗子と結婚した。

岩崎の死を待っていたように、外務卿、井上薫は伊藤博文ら政府首脳と相談し、両会社を合併させた。合併にあれほど反対していた弥太郎と違って、弥之助は温厚で時代の空気、変化を冷静に見通す能力に長けていた。後に日銀総裁にもなった人物だけに、「負けて得する」術も心得ていたのかもしれない。共同運輸側に有利な合併だったが、合併を受け入れ、日本郵船が誕生した。日本郵船は当初共同運輸側が経営のトップを占めたが、業務に精通している三菱出身者が次第に力を付け、トップに就任するようになった。気が付けば、日本郵船は三菱出身者が支配する会社になっていた。

なぜこうなったのだろうか。人材育成の仕方で渋沢と岩崎は対照的だった。岩崎は会社発展の原動力は人材育成に尽きると考えた。福沢諭吉の「西洋事情」を読み、共鳴した岩崎は、福沢が設立した慶應義塾から有能な人材を多く採用した。「共同運輸との合併で一度死んだかに見えた三菱だが、短期間に日本郵船の実質的な支配者となり、今日では三菱財閥の源流会社とされる。実務に精通したプロの社員を計画的に育成する手腕では岩崎が一歩も二歩も先を行っていたといえるだろう。

渋沢も会社発展の決め手は有能な人材に負うことは承知していたが、計画的に育成するという発想は乏しかった。長男を自分の後継者にする事にも失敗している。

ただ、「道徳と経済の両立」を掲げる渋沢の経営理念は弥之助以降の三菱トップに引き継がれて今日に至っている。

2023年2月17記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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