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新1万円札の顔、渋沢が愛した資本主義 

1回〈〉明治維新を跨いで渡欧 

渋沢資本主義は明治に入り、日本が西欧近代化路線を目指し、官民一体となり経済発展に取り組む中で産声をあげた。渋沢栄一は徳川慶喜の弟、昭武に同行してパリで開かれた万国博覧会を見聞した。日本が江戸から明治維新に移行する1868年を跨いでの渡欧だったため、戊辰戦争など幕末の混乱に巻き込まれず、外国から日本を客観的に観察できる幸運に恵まれた。もし日本にいたら血気盛んな渋沢のこと、命を落としていたかもしれない。パリ滞在中、フランスを中心にスイス、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリスなど約2年弱、ヨーロッパ各地を訪問したことが、その後の渋沢の社会観、経済観に大きな影響を与えた。その一つが合本主義(資本主義)である。フランス滞在中に名誉総領事で銀行家のフリューリ・エラールから銀行や合本組織、今でいう株式会社について学んだ。人間一人でできることには限界がある。だが、日本国内に散在する有為な人材を集める。また金額は小さくとも、多くの人が資金を出し合えば大きな資本になる。有為な人材と大きな資金を結び付け、世のため人のためになる事業を立ち上げれば、社会も豊かになり会社も利益が上がる。そこで働く労使の所得も増える。工場立地地域も潤う。江戸時代の近江商人の経営哲学、「三方よし」の精神にも繋がる。「三方よし」とは売り手よし、買い手よし、世間よしのことだ。

 天然資源に乏しかった日本が経済を発展させるためには、唯一の資源である人材の発掘、養成が必要だった。私欲を抑制し公益を前面に押し出す経営こそ近代日本の経済発展の源流だった。渋沢は銀行、製紙、鉄道、電力、ガス、海運、倉庫、セメント、レンガ、ホテルなど多種多様な約500の企業の創設に携わっただけではない。実業人の交流の場として東京商工会議所、資金調達の場としての東京証券取引所などのビジネスインフラも立ち上げた。さらに有為な人材育成を目指し一橋大学や日本女子大、早稲田大学、二松学舎大学など多くの教育機関、東京慈恵会や日本赤十字社、聖路加国際病院などの医療機関の創設、運営にも積極的に取り組んだ。また、養育院、結核予防協会、盲人福祉協会などの社会福祉関連事業などの設立、運営にも携わった。生涯で取り組んだ社会事業の数は600近くに達している。

渋沢が生涯をかけて創設・育成に携わった企業数、社会事業数を合わせると、その数は優に1000を超える。

76歳(1916年)の時、第一銀行頭取を辞任し実業界を引退するが、社会問題への関心は衰えることを知らない。その頃、アメリカ・カリフォルニアを中心に日本人移民を排斥する動きが目立ってきた。日露戦争で大国ロシアに勝利し、すこし浮かれている、と地元カリフォルニアの人々が苦々しく思っていたのではないかと、渋沢は憶測する。だが放っておけばさらに火は燃えあがってしまう。渋沢は老躯を駆って渡米し、排日運動が誤解に基づくことを米財界人や政治家に切々と訴えた。今でいう民間外交の実践だ。

大正12年(1923年)、関東大震災が発生、渋沢邸も被災し、周りからは故郷の埼玉県深谷への避難を勧められた。だが渋沢は東京に留まり自ら率先して復興支援に乗り出す。被災者救済のために立ち上げたのが大震災善後会だった。復興のための資金集めだ。国内の企業、篤志家に働きかけただけではない。渋沢が自身の無事をアメリカの友人に伝えると、親しいアメリカの政財界の大物たちが次々と寄付金を届けてくれた。1906年、サンフランシスコで起こった地震の際、渋沢が支援金を贈ったことへの返礼の意味もあったのだろう。困ったときの相互支援は渋沢が日頃から心がけ、実践してきたことだ。渋沢は83歳になっていた。

「欧米に追い付け、追い越せ」の国家百年の計を胸に、「豊かな日本」創りを目指し東奔西走する渋沢の人生は91歳で幕を閉じる。それまで休むことなく走り続けた。

渋沢の基本的な企業観は、「企業性善説」である。正しい企業活動で適正利益を上げることが企業の存続に必要だし、そこで働く人々(労使)の生活を豊かにする。工場立地地域も豊かになる、企業が提供する製品やサービスが多くの人たちの生活向上に貢献する。

それでは正しい企業活動、適正利潤とは何を指すのだろうか。正しい企業活動とは反社会的な行為を断じて許さない経営と言えるだろう。たとえば、渋沢の生前にはまだ視野に入っていなかったが、自然環境の破壊、天然資源の過剰採掘、生産過程で発生する有害物質の自然界への放出などの行為。職場に目を向ければ、従業員の長時間労働、児童労働の使用、人種、男女差別など。さらに独占価格の形成や不足物質の買い占め、不良商品の販売、脱税など様々なルール違反が挙げられるだろう。

適正利潤とは、正しい企業活動によって得られる利潤のことで、不正な経済活動によって得られる儲けは利潤とはいえない。

渋沢が経済活動の基準として「論語と算盤」を説いたのは道徳に裏付けられた経済活動が事業存続の条件だとの強い信念からである。ちなみに論語とは道徳、倫理などを表す言葉、算盤とは経済のことである。

2023年1月23日記

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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