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評伝 金森久雄氏

○ 成長がすべての矛盾を解決する

金森久雄さんが94歳の生涯を閉じられた。60年代の高度成長期を代表するエコノミストだった金森さんの旅立ちはあらためて、「昭和の日本が遠くなった」ことを印象づけた。

金森さんの経済観の根底には「経済成長はすべての矛盾を解決する」という揺ぎ無い信念があったように思う。「失業も貧困も公害さえも成長で克服できる」と。

 50年代後半から60年代の高度成長期にかけて日本は重化学工業路線をひた走った。その結果、成長のひずみとして深刻な産業公害を発生させた。当時の歴代政府は「環境より経済優先」で産業政策を推進してきたため、環境と経済が対立すれば必ず環境が後退させられた。そのツケとして水俣訴訟に象徴されるように各地で公害問題が深刻化した。

昭和39年(1964年)経済白書「開放体制下の日本経済」は経済企画庁の内国調査課長だった金森さんの執筆だが、環境軽視の風潮の中で、白書として初めて公害対策の重要性、処方箋を指摘している。

「私はなぜ政府が公害防止に力を入れないのか非常に不満に思ったが、環境基準を厳しくすれば、中小企業がやっていけなくなるという考え方が、まだ政府の中に強くあったのである」(再論経済白書 戦後経済の軌跡)と彼の著書の中で述べている。

金森さんというと、成長一辺倒で環境への配慮が薄いという誤解が一部に根強くあったが、実際の金森さんは官庁エコノミスト中でも、いち早く環境対策のへ重要性を指摘したことを知る人は少ない。

○ 下村さんとの在庫論争で飛躍

金森さんを高度成長期の旗手に押し上げる踏み台となったのは、高度成長の入り口に当たる神武景気の評価をめぐる在庫論争、別名国際収支の天井をめぐる論争だった。神武景気の山は昭和32年(1957年)6月、谷は33年6月となっている。神武景気は拡大期の頂点に近く国際収支の赤字が急速に膨らんできた。この頃、企画庁の後藤誉之助内国調査課長を中心とする白書執筆グループは、国際収支の赤字は日本の経済成長が高過ぎるためだと論陣を張りケインズ型の引き締め政策への転換を促した。これに対し大蔵省出身で後に日本開銀銀行・設備投資研究所所長になる下村治さんは、「輸入在庫の増え過ぎによる一時的な現象だ」と指摘し、引き締め政策の必要なしの論陣を張った。後藤さんの下にいた金森さんも引き締め派の一員として論文を書いたが、結果は下村さんの勝利で終わった。下村さんは、「勃興期の日本は生産のボトルネック(鉄鋼不足、電力・輸送能力不足など)を突き破ることで成長が可能になる」というシュンペーター流の創造的破壊を強調したものだった。敗れた金森さんはこの論争で「時代認識」の大切さを肌で学んだという。

「今の日本経済がどのような状態にあるか」の事実認識を誤ると、せっかくの経済理論も役に立たないだけではなく、害悪さえもたらす、と考えるようになる。

 

金森さんが高度成長の旗手といわれるようになった背景には、「日本経済の今」へのあくなき事実認識があった。金森さんと並び高度成長論の代表者であった下村さんは1973年の石油危機を境にゼロ成長論者に転じた。石油制約で日本はゼロ成長に陥らざるを得なくなると主張した。

○ 日本経済の転換能力を評価

一方、金森さんは日本経済の持つ転換能力、イノベーションがやがて石油危機を乗り越えることができると述べ、下村さんと袂を分けた。その後の日本はゼロ成長に陥ることなく、バブルがはじけるまで、5%前後の経済成長を続けてきた。ただバブルが弾けた後の1990年代以降、少子高齢化を伴う急速な人口減少、米ソ冷戦の終結、中国などの新興国の登場、経済のグローバル化、ICT革命の急速な進展、深刻化する地球温暖化など内外の様々な構造変化に対応できず、日本経済は「失われた20年」といわれるような低迷期に落ち込んだ。金森さんは数年前まで日本経済新聞の証券面のコラム「大機小機」で「越渓」のペンネームで執筆していたが、高度成長期のような切れ味の良い提言は見られなかった。時代は昭和から平成へ大きく進んでしまった。

金森さんは経済企画庁を退官されたあと、日本経済研究センターで主任研究員、理事長として若手のエコノミストの育成に力を入れてこられた。各企業から派遣された若手社員を委託性として受け入れ、経済予測手法、「経済の今」の見方など具体的な指導に当たられた。超楽観主義と他人に対する深い思いやりが多くの人を引き付ける。

○ おはこは鉄幹の「妻をめとらば・・・」

委託性の有志が毎年新年に夕食を楽しみながら金森会を開いている。平成元年に第1回がはじまり、今年が30回目だった。委託性の多くも70歳台後半の後期高齢者に差し掛かっている。かくも長きにわたって続けられたのも金森さんの人徳のおかげである。

会の最後に、金森さんはたった一つの持ち歌与謝野鉄幹の「妻をめとらば才たけて、みめ美わしく情けある・・・」を口ずさむ。来年はもう聞けない。

「やることはすべてやった、さわやかな旅立ちの顔だった」と金森さんを支え続けた夫人の一言に大往生の金森さんをしのぶ。

作成者: tadahiro mitsuhashi

三橋規宏 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授 1964年、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から名誉教授、専門は経済学、環境経済学、環境経営学。主な著書に「新・日本経済入門」(編著、日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)など多数。中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など歴任。

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